我が家の元旦
我が家の元旦は、毎年。同じ行事を続けて30年以上になります。今年もまた、初日の出、泉神社、団地新年会、鹿島神宮、年賀状などのチェックと追加などで一日が過ぎました。
毎年、水木海岸に初日の出を拝みに行く。これは、子供達が小さい時は犬も連れて皆で言ったが、今は毎年、一人で行く。ここ数年は良い天気で、水平線から太陽が昇る姿が良く見えた。初日の出と言うと、どういう訳か若者も多い。
日の出数分前の海
初日の出
日の出を見終わって(車が多い)
帰ってくると、何時もの雑煮でおせちなど食って、泉神社へ団地の恒例の新年会に行く。
昨年のお飾りなどを納め、参拝。新しいお札をもらい、新年の挨拶をして、サケを飲むのだが、車を運転するようになってからは、次の行事が控えているので、口をつけるだけ。
団地の人達 泉の弁天様
終って帰り、10時頃、皆で鹿島神宮へ我が家の初詣に出る。これも初めの頃は、水戸からバスで行ったり、タクシーで行ったり鹿島臨海鉄道で行ったこともあるが、子供が免許を取ってからは車である。
245号線は、東海村の村松虚空蔵尊の初詣で混んでいるので、脇道を行き、51号線に入り途中から、裏道で入って、御手洗近くの駐車場に車を止めて、参拝に行く。
御手洗への道 御手洗と奥の湧水
こちらは、御手洗の泉があり、神官などここで禊をしてする所で、ここの湧き水で清めをして、坂を上っていくと、徳川家康が建てたと言う奥宮である。元は本宮であったが、秀忠が新しく本宮を建て、これを奥宮としたとの事。
奥宮 要石(手前の小銭の所)
ここを参拝して少し奥に行くと、要石がある。これは地表面には一寸しか現れていないが、昔、7日7晩掘ったが下まで届かなかったと言われ、地震を起こす大なまずを抑えているそうである。道理で茨城は大きな地震がない。
そこから参道に出て本宮に向かうと途中に、アントラーズ(鹿の角)の名前の由来となった、鹿舎がある。今年は掲示板が出ていて、市かに餌をやらないでくれと書いてある。
何でも、故意にビニールなどを食わせた奴がいて、鹿が7頭も死んだそうである。ここの鹿は春日大社の鹿が死に絶えた時、もって行ったとも言われている。
鹿舎(奥にいて餌をもらいにこない) 奥宮から本宮への参道
そこから本宮に行くが、今年は、何時もより参拝客が多い。特に子供連れが目立った。
不景気で近場で済まし、神頼みと言うことであろうか。
昔、こんな川柳や狂歌もあったですね
めでたさも
中くらいなり
おらが春
正月は
冥土の旅の
一里塚
めでたくもあり
めでたくもなし
子供連れの参拝客が多かった
参拝して、お札やお守りを求めたが、ここもまた、例年いなく人が多く、1時間近くかかってしまった。
例年のおみくじは、今年は、吉で、娘は大吉とか、数年前、二人とも凶であったが、運も向いてきたか??
ここから町の方向に向かう参道の両側には多くの出店があるが、何時もの達磨屋のおばさんから達磨を買う。
参拝も終って、東京から来ていた次男たちと別れ帰路に着いた。この日は、今度は長男達が来た。
「鹿島神宮」
常陸国一宮(二宮は静神社、三宮は吉田神社) 全国に600社ある鹿島神社の総本社
茨城県神栖市の息栖神社、千葉県香取市の香取神宮と共に東国三社と呼ばれている。
祭神は武甕槌神で、香取神宮の経津主神と共に武神といわれ、道場などはこの二神を
掛け軸として飾っている。
由来は、紀元前660年(神武元年)と言うとんでもない古い話になっているが定かではない。
しかし、常陸風土記では、肥後国造の一族の多氏が上総に上陸して常陸に勢力を伸ばした
とあり、弥生人が船で北上してきたことを示している。
そして、先住の蝦夷に対抗し、霞ヶ浦方面、涸沼方面と勢力を伸ばす根拠地であったので
あろう。
それは、勿来の関や白川の関が出来る数百年も前のことであったのであろう。
その後、この地方は、関東における平家の勢力下にあり、戦国末期に佐竹の支配下に入ったが、中々帰服せず、梅見の宴と称してこの地方の豪族を呼び、皆殺しにした。
徳川の支配下では、佐竹の支配の影響をなくす為、八幡宮を吉田神社にしたり、山岳寺院を権現社にしたり、様々な変革がなされてきたが、ここは色々な意味で重要視されてきた。
鹿島神宮にも伊勢神宮のお伊勢講と同じような組織もあったらしいが不勉強で良く分かりません。