「世」

 「世」はもともと「丗」と書いたようで、「一世」とは30年を指し、君主の統治期間などを指していたという。また、人の一生涯も「世」という。

言われてみれば「丗」と言う字は三十に似ていなくも無い。しかし、歴代の王朝で30年以上も在位した君主はあまり多くない。それは、数年で病死したりする君主が余りに多かったと言うことでもある。

 我々も、社会人としての生活は、大体、30年が一区切りであるような気がする。

一世一代の大勝負という言葉もこの「世」からきているのであろう。

もうひとつ、「世紀」と言う100年の区切りもあるが、これは辞書には、西洋の歴史の

100年間を表すとあるから、Centuryと言う言葉の訳語である。

 もうひとつの使われ方は、「世界」で、これは仏教から来ているらしい。

仏教で言う「世」は、過去、現在、未来をあらわしている。前世、現世、来世、末世などこれから来ている。一方、「界」東西南北、上下の境界を表すという。

すなわち、世界とは我々の住む時間と空間を表している。[三千世界]という表現もあるので、宇宙には、地球環境と似たような世界が三千くらい在るのかも知れない。

 「世間」などもこの[世]に近いが、どちらかと言えば自分を取り巻く環境といった意味合いが強いように思われる。

「世話」と言う言葉も良く使うが、今では、老人の世話をするといった使い方だが、

歌舞伎の「世話もの」などのごとく、昔は「世間のうわさ」という意味であり、週刊誌に取り上げる話題といったニュアンスであったのである。

 どうもこの「世」(セ)と言う言葉は、訓読みで硬いイメージが強い。

「世」(よ)と言う言葉が世俗的でもあり、和歌にもよく読まれている。

 

百人一首にも恋の歌についで多いのではないだろうか。

 

喜撰法師

わが庵は 都の巽、しかぞ住む をうじ山と 人はいふなり     

小野小町

花の色は 移りにけりな いたずらに わが身 にふるながめせしまに

和泉式部

あらざらむ こののほかの 思い出に 今ひとたびの 逢うこともがな

藤原俊成

の中よ 道こそなけれ 思いいる山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる

藤原清輔

ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しとみしぞ 今は恋しき

源実朝

の中は つねにもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の綱手かなしも

慈円大僧正

おほけなく うきの民に おほふかな わがたつ杣に 墨染めの袖

後鳥羽天皇

人もをし 人もうらめし あじきなくを思うゆえに もの思う身は

 

 このように我々が良く知っている人たちもまた世の中を歌っている。

人は所詮、「世」の中を離れては生きられないのであろう。