「刻」
時を刻むと書いて「時刻」と言う。
今の家に引っ越してきて、約30年間、慣れ親しんできた日立電鉄線が廃線となって家の横の線路の土手の草も刈られることも無く、次第に背丈も伸びてきた。
今まで、水木駅から桜川駅まで10分もかからず、病院や工場に行くのにドアからドアまで20分で行けたのが、今は、一時間近くかかる。
しかし、もっとも不便なのは、時間が分からなくなったことである。朝、電車が通ると今何時、昼ごろであれば今何時と分かったのが、今はさっぱり分からない。
何回か分解掃除をして、動いていた結婚祝のぜんまい式のボンボン時計も、動かなくなり時を刻み、時を告げるものがなくなってしまった。
しかし、現実の生活もサラリーマン時代と違い、正確な時間に縛られるのは、ゴルフに行ったりする時のみとなり、朝、明るくなると眼を覚まし、夕方暗くなると眠くなると言う生活になりつつある。
生活の上の昼と夜の感覚が、江戸時代の不定時法の時刻に似てきたのである。
今良く、サマータイムにしようなどと言われているが、江戸の時間はそれ以上である。
明け六つ(日の出の約30分前)から暮れ六つ(日の入りの約30分後)までが昼であり、それは、その季節の日の出と日の入りで決まり、お寺の鐘が時刻を知らせていた。
夜の12時と昼の12時のみが今と同じで、それ以外の時間の長さは季節で異なるのである。
「日が長い」「日が短い」と言う言葉はここから来ている。
そして時間の単位は「刻」で2時間、最小単位が「半刻」で30分であった。一般人の生活はこれで十分であったのであろう。
江戸では、石町の鐘楼が標準時で「石町は、江戸を起こしたり寝せたり」と川柳でも歌われている。
江戸と九州では、当然時差があるが、それぞれに日の出と日の入を元に時間を決めていた。
現代の社会では、アメリカやロシアなどでは、経度によって標準時間を変えている。
中国のみが東の端の方にある北京を標準時としている。中国の中華思想が変わらないことはこれでもよくわかる。とにかく、北京の朝は、新疆ウイグルではまだ、真夜中である。
サラリーマンと言う生活を離れると、時間の経ち方が今までと全く違ってくる。言うならば、不定時法の時間の下で生活しているのである。
サラリーマンの世界も、サマータイムなどとけちなことを言わず不定時法を採用し、夜の8時から朝の4時までは、一切の仕事は禁止とすれば、エネルギーの消費も減り、少子化も防げると言うものであろう。
ただし、今の日本では爺婆が多くて、後者のほうは無理かもしれない。