九州にて

                教会で感じたこと

 九州の西側を旅行すると、多くの教会がある。丘の上に白い教会が立っているのはなかなか良いものである。

隠れキリシタンの時代からの信仰が、明治になって信仰が認められると思って出てきたら、明治政府が最初はこれを取り締まり、津和野などに流し、拷問をしたりしたという歴史もある。

聖母像を慈母観音などに託して拝んできたためか、必ず、入り口付近にはマリア像がある。この辺が西洋の教会と少し違うような気がした。

              

 このような歴史をたどる時、一般の信者にはまことに同情すべきところがある。

なぜ、この地方で急速にキリスト教が広まったかを考えるとき、この地方の生活環境が、日本の中でも厳しいところであるからというのが大きな理由かもしれない。

山が海に迫り、川は直接、海に流れ込み、わずかな棚田や段々畑と漁業で生活をするという厳しい自然環境では、神道や仏教のような多神教的な考え方はなじまないのかもしれない。また、当時の宗教の中心であったこの地方の仏教は民衆から遊離していたのであろう。

このような環境に対して、民衆のための病院、新しい技術などを持ってきた宣教師は民衆から受け入れられ、領主たちもその力を利用しようとしたのであろう。

しかし、大航海時代のスペイン、ポルトガルのやり方を見る時、そのやり方が全てが「善」とは言い難い。彼らは、大航海時代、世界を二分する協定の元で世界に覇を唱えようとしたのである。インカを滅ぼし、マヤの神殿の丘に教会を立て、世界に宗教とともに進出していった。

このようなやり方は、十字軍以来の伝統ともいえる。

 日本でも、キリシタン大名達がどこまで彼らを信用したかは分からないが、その勢力を利用し、神社や寺院を焼き討ちしたことは確かである。

島原から平戸までの西海岸には、古い神社や寺院はない。宮崎や大分方面に行くと

寺院なども残ってはいるが、ほとんどが、大友宗麟に焼き討ちされたと説明書がある。このようなことをやっていて、今のタリバーンを責める事などできないであろう。

 政治と宗教が硬く結びついた時、特に、一神教の場合、この傾向が強い。

一神教の神は一人のはずであるが、その教えをこの世に伝えた使徒は何人もいて、その信者同士が争っている一神教の世界にはなじめないものがあると今回旅行して、また、感じたのであった。