今年の谷中七福神詣で
江戸の昔を偲んで
高校同期で昨年は、浅草七福神詣でをしたが、今年は谷中七福神をやろうということになり、小生が一昨年廻ったので計画してくれと言うことで、計画しました。
単に七福神だけをまわるのでは面白くないので、周辺の寺社なども調べて、すこし広く廻ってみることにしたのです。今回は、かなり欲張って色々な所を回りました。そのため、お見せしたい写真が膨大です。
ホームページでは、容量が大きくなるので、周辺の寺社、谷中霊園などはCANON IMAGE GATEWAYに纏めて入れました。
本文はかなりの写真を省略したので、下記のURLから全体の写真を見てください。ルートが分かります。
トップページの(album)からも入れます。
写真(アルバム)のURL http://www.imagegateway.net/a?i=J7KjMaQFLq 上記のURLをクリックし、アルバムを開き、スライドショーで見てください。説明がついています。 |
不忍池の弁天堂から、田端東覚寺まで七福神の距離は約7km位です。江戸時代の人達は、下町の住まいからここまで歩いてきて、お参りが終って家に帰るとすると、4里、15km以上は歩いたのであろうと思われます。
当然、途中で休んだりしたであろうから、茶屋などもあったと思われるので、この一帯がどんな所であったかも興味があります。
七福神めぐりのルート
1月15日、今日は、ご開帳の最後の日です。(来年からは10日までだとの事)上野駅公園口に集まったメンバーも、丁度7人まさに七福神です。
ここから、上野公園の中を横断し、途中、彰義隊の墓によりました。墓碑名は山岡鉄舟の筆によるものとか。
ここを少し戻ると、寛永寺に属する清水観音堂です。ここをまず、それぞれに拝んで横の階段を下ります。
下っていくと不忍池で正面が最初の七福神の不忍池弁天堂(弁才天)です。弁財天のご利益は「愛嬌」とか。弁天様のお写真を撮ろうとしましたが、やはり奥深い所まで見ることが出来ませんでした。
ここの蓮池は、水鳥の天国ですが、最近は、カミツキガメなど外来の生物も住み着いたりしています。また、島には色々な面白い碑があって、見ていると飽きないのですが、先もあるので省略。
清水観音堂から見た弁天堂 弁天堂正面
弁天堂背面 奥が弁天様
ここを戻って不忍通りを進み、五条天神に参拝しました。由来は色々と書かれているようで、寛永寺の増築などでこの地に移されたようです。丁度、正月飾りを燃やすどんど焼きなどやっていて、子供がもちを焼いたりしていました。
上野動物園水族館への陸橋とモノレールの下をくぐります。丁度モノレールが通りました。昔より綺麗になってとの感想ですが、昔って何年前???
進んで、右折すると、森鴎外が新婚当時住んでいた鴎外荘(水月ホテル)の前を通ります。
更に進んで暗闇坂といわれる坂を上って上野高校横を通ります。ここは、寛永寺の清水門があって、木が生い茂り昼なお暗い所から「暗闇坂」と名付けられたそうです
二番目の七福神の護国院(大黒天)です。大黒天のご利益は「富財」です。良く拝みましたが、昨年来の損失は取り戻せるのでしょうかね?
ここには、立派な能楽堂がありました。
護国院 大黒天
この前の道を進むと右が東京芸大で左折し、言問通りを渡ると、角に「旧吉田屋酒店」(下町風物博物館付帯設備)があります。この辺には、戦災に焼け残って様な古い家や店もあります。
そのまま、一直線に谷中霊園に向かいます。「桜通り」とも言われて、桜の季節には、人出も多いといいます。
霊園事務所を曲がって霊園内を進むと徳川家の墓所があり、「徳川慶喜」の墓があります。
すこし、戻ってJRと並行に進むと、三番目の七福神の天王寺(毘沙門天)です。毘沙門天のご利益は「威光」だそうで、何処かの総理大臣に授けたいものですね。
天王寺 毘沙門天
ここからすこし「桜通り」を戻ると、幸田露伴の小説に出てくる「五重塔」跡に出ます。寛永寺、増上寺、浅草寺の五重塔と共に、江戸四塔の一つと言われた五重塔でしたが、昭和32年に放火で消失してしまいました。
この近くに、日立創業の主である小平波平の墓があり、表敬訪問しました。
この下記を右折すると、四番目の七福神の長安寺(寿老人)です。寿老人のご利益は「長寿」で「ピン、ピン、コロリ」を祈願しておきました。ここには、狩野芳崖の墓があります。
その横が観音寺で、ここの六世住職が赤穂浪士と兄弟であった関係から四十七士の慰霊塔があります。また、ここの築地塀は昔の風情が残ると有名らしいが、何処なのか良く分かりませんでした。
長安寺 寿老人
その隣が、七福神そばを食わせる小さな蕎麦屋で、丁度12時過ぎとなったので入ろうとしましたが、満席で諦めました。
この先が、国立朝倉彫塑館です。見たら一日かかってしまうので止めて進みます。
少し進むと、日暮里駅に出る十字路です。右に曲がると日暮里駅方面で、初音小路と言う路地には都せんべいなどと言う谷中せんべいの店があります。この辺で空腹を満たそうと中華料理店に入り、腹ごしらえをしました。
そして、少し行くと、経王寺で、ここには、日蓮上人が作ったという大黒天があり、ここが護国院に代わる谷中七福神の大黒天であったこともあるそうです。上野戦争で彰義隊を匿い、官軍の銃撃を受け、その弾痕が今でも山門にあります。
ここを進むと、本行寺で、こちらは「道灌山」と言われたこの辺りの景勝地で、俗称「月見寺」と言われていました。
ここを戻ると、下り坂で、少し行くと道は二つに分かれ、「谷中銀座」に直通する「七面坂」と「夕焼だんだん」といわれる道に分かれます。(すぐまた、一緒になりますがーー)
谷中銀座は、100m位の狭い道の両側に、店が並ぶ戦後のマーケット風で、我々の年代の郷愁を誘う通りで、テレビなどで放送されて有名になりました。
七面坂 谷中銀座
戻って角の飴屋のところを曲がり、竹細工の店などを過ぎて進むと、左折する「富士見坂」です。ここを上っていくと、江戸六地蔵の一つがある浄光寺(雪見寺)と諏方神社があります。
浄光寺には、地蔵像のほか「福神漬け表彰碑」なるものもありました。福神漬けは、明治の初め、酒悦の野田清右衛門が考え、商品化したものとか。
諏方神社は、13世紀の初めに諏訪神社を勧請、太田道灌が神領を寄進した。今でも夏祭りは盛大に行われるそうです。
江戸時代にはこの一帯は「ひぐらしの里」(日暮里)と共に「諏訪台」と呼ばれた景勝地でもあったといいます。
ここから、富士見坂を下っていくと、右手のマンションの庭の柿の木には、柿が干し柿状態になってぶら下がり、目白が沢山来てついばんでいた。江戸は鶯谷、目白といった地名があるように、野鳥の宝庫であり、トキやタンチョウなども沢山いたとオールコックの「大君の都」にも書かれていたのを思い出した。
更に、前方を見ると、ビルの間に富士山のシルエットがはっきりと見えた。(残念ながら写真は無理で手書きで書き足した)
富士見坂からの富士山 柿を食う目白
戻って進むと、五番目の七福神の青雲寺(恵比寿)です。恵比寿のご利益は「正直」です。
そして、少し進んで右折した所が六番目の七福神の修性院(布袋尊)です。布袋尊のご利益は「大量」です。「大量」で何??と坊さんがいたので聞くと「度量が大きい」などということだと言います。
どちらも縁があるやらないのやら????
修性院 布袋尊
青雲寺 恵比寿
すぐに、西日暮里駅からの道灌山通りに出てここを渡って直進していくと、右手が開成高校で、この一帯は江戸時代、佐竹の藩邸があった所です。昔のお参りは我々が通っている道を行ったのか、景色の良い、佐竹邸の南側を行ったのでしょうか?
今通ってきた道よりも、もう一本上の道は、「道灌山」「諏訪台」「ひぐらしの里」などと呼ばれた景勝の地を通るもので、古地図では茶店なども多く、甘酒など飲ませてくれたのかも知れません。前回の浅草七福神を思い出し、甘酒が飲みたいなどという仲間も出てきました。
開成高校の下手を進むと千歳湯という大きな銭湯があります。まだ、2時過ぎで閉まっていました。(一人で来て、開いていたら必ず入ったのにーー)
ここから進むと田端駅からの道に出て、いよいよ最後の七番目の七福神の東覚寺(福禄寿)です。福禄寿のご利益は「人望」です。これまたどこぞの総理にーーー
ここは赤紙仁王とも言われ紅い願い札を沢山貼った仁王像があるのですが、今は周辺が大工事中で、像などは囲いで保護ざれていて見ることが出来ません。6月になったら見られるよという話しです。前回一人できた時は、最初の弁天堂が修復中、今回は最後の東覚寺の周辺が工事中というのも何かの因縁でしょう。
もともと、この仁王像は神仏混交の時代、隣の田端八幡神社の前に立っていたのを明治の廃仏毀釈でこちらに移したものだとの事です。
工事中の東覚寺 赤札仁王(一昨年)
工事前の福禄寿
ここで最後の記念写真を撮り、駅に向かう道で隣の田端八幡神社に参拝しました。
この八幡神社は、源頼朝が奥州征伐の帰りに、鶴岡八幡宮を勧請して立てたと言われています。夏祭りも盛んで、参道の横に多くの町内会の神輿倉がありました。
現代の七福神
御朱印
これで、終って3時。まずは一杯と上野に出ましたが、まだ、三時、店はまだ開いていないかか満員で、結局、御徒町まで歩いてしまい、ここで打ち上げです。
一杯飲んで盛り上がり、「来年は何処へ行く?」とはせっかちなことです。
歩いた距離は、約2万歩で道を間違えたり、上野から御徒町まで歩いたりした分を引けば、正味は11km弱でしょうか。単に七福神だけなら、7km前後と思われます。
追記
1.江戸四塔
寛永寺
増上寺
浅草寺
天王寺
2。江戸六地蔵
江戸に通ずる海道の入り口に建立され、病気などがはやらぬ用との趣旨で、元禄年間のものと宝永年間のものがある。後から作られた宝永年間のものは廃仏毀釈で壊された一体を除き、五体は現存。
浄光寺のものは、元禄年間のものが1813年に再建されたものです。