みちのくの旅(その13)(再び北東北へーーその6)

               北のはずれ竜飛岬から青森へ

 岩木山の北側から竜飛岬へと思っていたが、女房が太宰治の生家を見たいと言い出し、五所川原方向へ少しルートを変更する。例によって、都会のホテルでは朝飯は食わず、昨夜買っておいた飯を食い、6:40にスタート。
街中は空いている。

県道37号を進み、国道339号(小泊道)を進み五所川原を抜ける。弘前を抜けた辺りの県道からりんご畑の向こうの岩木山が綺麗に見えた。

          

                          りんご畑からの岩木山

 更に金木に向かって進む。339号はこの辺で、冬はストーブ列車で有名な津軽鉄道と平行している。

金木に8時過ぎに着いたが、太宰治の生家である記念館はまだ開いていない。津軽鉄道の一駅先の芦野公園駅の桜は有名で、公園の桜も有名だが、公園までは時間の関係もあり行かなかった。

   

           太宰治記念館                     津軽鉄道芦野公園駅

 

 ここから農道に入り、十三湖に向かい昔の十三湊の跡を訪ねた。この一帯は、中世に安藤(安東)氏が支配し、港を構え、蝦夷地や大陸沿岸までも含めた交易を行い栄えた所である。縄文時代からの遺跡もあり、さらには発掘の結果から、城柵の跡も10世紀頃までさかのぼるのではないかとも言われ、更には「東日流外三郡誌」なる文書(偽書と言うのが通説だが)が現れたりして色々と想像力をかき立てられる。いずれにしても、時代的には、大和が北進していく過程で10世紀頃この辺に拠点ができつつあったということは間違いないのであろう。北東北は文書がない。アイヌのように伝説を語る語部も居ない。

色々と発掘調査も行われ、大地震などで滅んだとも言われているが、戦国時代には南部氏の興隆で安東氏の勢力は衰退し、ここも衰退したのであろう。

   

         十三湊への道(十三湖畔)             十三湊周辺(市浦市資料)

   

          町屋の説明                        町屋跡(今は畑)

 ここから、339号の快適な海岸線をドライブしていくと、小泊岬である。岬の先端には権現崎灯台除福伝説のある尾崎神社などがある。しかし、数年前の台風の高波で道路の護岸が崩れ通行止めとなっている。岡の上のキャニオンハウスも進入禁止で空しく建屋を残すのみであった。このまま、修理されないのだろうか?金がなくなった日本の未来を象徴するような風景である。

   

       閉鎖されたキャニオンハウス                 歩いて車に戻る

 戻って岬の付け根の山を越すと小泊港、町を向けると道の駅「ぽんとまり」である。この辺はいか漁で有名。水槽にいかが沢山泳いでいた。ここで、しばし休憩し、10時少し過ぎに竜飛岬に向かう。

今度は海のよく見える岡の上のドライブコース。遠くに動いていない風力発電の風車が見え、近くでは山菜取りの車が止まっている。ガードレールを乗り越えたり、山菜取りのおばさん族は逞しい。この先に、眺瞰台と言う北海道まで見渡せる展望台があるが、北海道はかすんで見えなかった。

   

        道の駅「ぽんとまり」               山菜取りのおばさん(遠くに竜飛岬)

              

                   眺瞰台からの竜飛岬の港(北海道は霞んでいる)

 10時半過ぎに竜飛岬に着く。まずは、階段国道を見て、灯台方面に登る。国道339号の竜飛岬の先端は階段で下に下る日本唯一の階段国道。近くの記念碑辺りから石川さゆり津軽海峡冬景色が聞こえてくる。

   

              階段国道の降り口                 確かに階段!!

 少し戻って、青函トンネル記念館を見る。外には、トンネル掘削時のリブや坑道車などが置いてあるが、いささか錆が出ている。

ここはケーブルで地価の坑道まで降りられるが、時間があまり無いので、館内をざっと見て、ここの食堂で昼飯とする。

 

                        リグ(後ろは記念館)と記念館

 12時にここは出発し、港に向かって下っていくと太宰治の「津軽」のの一節の碑がある。                                                                                                                          
                       太宰治の碑と碑文                  

 ここで、義経寺への道を聞くと、海岸ではなく、山の中の道を教えてくれた。進んでいくと、寺の裏側に出て、直接来るまで境内の入ることが出来る。国道から行くとかなり階段を上る必要があった。

この辺の地名は、三厩(みんまや)と言い津軽線の終着駅でもあり、ここの港は奥州街道の終点で、松前(北海道)への港でもある。ここ三厩の地名の由来は、三馬屋から着ているとのことで、昔、源義経が追っ手を逃れ、蝦夷地に渡ろうとしたが海が荒れて渡れない。観音像を厩石の上に置き、三日三晩、祈願したところ竜馬を与えられ、北海道に逃れることが出来たという義経伝説本州終端の地でもある。後に、円空がこの地に来た時、厩石の上に光るものを見つけたのがその観音像でそれを祭ったのが義経寺であるという。

 寺には、みやげ物を売っている所があり、住職らしい人がお茶を振舞ってくれた。廃仏毀釈でどうなったかを聞くと、周辺の寺が廃寺となりここに檀家を集約して、残ったという。北海道の義経伝説は、アイヌの統治の手段の一つとも言われているから、新政府といえども簡単にここを潰す訳にはいかなかったのかも知れない。

    

           竜馬山義経寺                     高台から見た港(遠くは下北?)

   

                  終着駅三厩(義経伝説などの與来由来の看板があった)

 さて、ここからは、松前街道(奥州街道、280号)高野崎をすぎ、陸奥湾に沿って延々と青森まで進む。

青森市内に入る手前で、北方船の博物館に立ち寄る。ここは、体育館風の大きな建物で、様々な船の現物が収納されており、傍の岸壁には、NHKのドラマの篤姫のロケに使ったという北前舟を再現した船などがある。

建物の上部は展望台となっており、ベイブリッジや青函連絡船のバースなどが良く見えた。

       

    博物館の中(他にも多くの船がある)             篤姫のロケにも使われた北前舟
               (手前にちょっと見える船は北条時宗のロケに使われた船)

                

                        展望台からの青森港と市街

 ここを出て、市内に入り、旧青森銀行の建物を使った青森県立郷土館に行く。ここは縄文から現代に至るこの地方の遺跡や文化、人物など様々な展示品があり、一見の価値がある。

    

           青森県立郷土館                   展示品の一例(三内丸山遺跡)

 もう一箇所、森の博物館と言うのも見たかったのであるが、時間がなくなった。最後に、青森にきたら青函連絡船である。ここでも、石川さゆり津軽海峡冬景色が放送されていた。

連絡線の八甲田号の船内見学も時間の関係で省略し、宿泊地である夏泊に向かった。

 

                        最後の連絡船「八甲田号」

 もともとは、浅虫温泉に泊まりたかったのだが、連休中は良い所が空いておらず,夏泊の先端まで行き、民宿に泊まることにしたもの。着いて見ると、食堂や民宿が立ち並んでいるが開いて居る所は少ない。我々が泊まった民宿も、この日は我々二人だけである。女房より少し若いであろうか、60歳代と思われる少し足を引きずって歩くおばさんが切り盛りしている。

17時過ぎに着いたので、少し早いから、この先に椿山神社があり、そこを過ぎると夜越山というところにいきいき健康館という日帰り温泉があるからいったら良いだろうと奨める。どうやら、民宿も開いたばかりで準備不十分だったらしい。

ここが椿の北限地であることは調べていたのでいって見ることにした。

    

         椿山神社(右の碑文はなぎさ百選)           椿の花(やぶ椿に一種?)

 帰って、民宿のおばさんと話などしながら飯。色々な魚、海産物が出たがなまこなど硬いものも多く、歯の悪い女房には不評。

曰く 「お父さん好みだ」

 

「夏泊の悲劇」

 民宿のおばさんから、食事時などに聞くともなしに身の上話を聞いた。

自分は若い時に夫が死んで、一人で四人の子供を育てた。

しかし、ようやく楽になった十数年前に車に衝突され、腰の骨など折る重傷で保障ですったもんだし、今でも腰が曲がり足を引きずっている。

この一帯も昔は、民宿も盛んだったが、今では開いているのは二軒のみ。

最初に電話をもらった時は長野の方のスキー宿に手伝いに行っていた。自分の家も有るが冬は寒く、暖房のあるところで働いたほうが楽だ。毎年そうしている。

 今年もそうした。四人目の男の子も結婚して家も持った。こんなことを話したくないのだがーーと言いつつ、実は先日のニュースで知っていると思うが、ほたて貝の漁の手伝いを頼まれ、息子が友達と海に出て、突風で船が転覆し、死んでしまった。

未だに死体も回収出来ていない。葬式も出来ない。転覆した時は、ゴムの防寒防水着を着ていたので、転覆した時は必死に脱いだに違いない。さぞ苦しく、寒かったろう。

 自分もなんでこんな目に会うのだと思っているが、元気な限りはこの民宿を続けようと今年もやることにしたのだとーーー