みちのくの旅(その12)(再び北東北へーーその5)

                       桜を追って弘前へ

                        (2008年5月1日)

 

 例によって、朝、早く起き宿の大釜温泉から更に奥にある孫六の湯まで行って見る。ここは、川筋に沿ってかなり奥まで行き、先の方は車が入れない。こちらの方が秘湯という雰囲気である。

  

        宿から見た秋田駒ケ岳                   孫六の湯

 さて、今日の予定は、国道341号から八幡平に行き、アスピーテライン見返り峠まで登って戻り、尾去沢方面に抜けることにしていたが、見晴らしも今一の様なので、この辺の一帯は温泉を尋ねる旅を何時かやろうと考え、桜が咲いているという秋田内陸縦貫鉄道に沿った国道105号線(大覚野街道、別名またぎ街道)を行き、比内から鹿角に抜けることにした。

この鉄道は、大正11年に計画され全線が開通したのが平成元年と言う角館―鷹巣を結ぶ94.2kmの鉄道である。

 宿から県民の森の桜並木を通り、今日は田沢湖の北岸を通って、105号線に出る。途中、湖畔の御座石神社による。

ここも修験道の行者が湖に突き出た岩の上で修行した所と言う。

   

         やっと桜らしい桜に出会う。                  朝の田沢湖

   

          湖畔の御座石神社の鳥居                御座石神社

 105号線大覚野街道とも呼ばれ、江戸時代、大覚野峠を越える阿仁銅山への物資の運搬路であった。

峠を越え比立内から県道308号に行くと、あにマタギ駅があり、その先にマタギ資料館がある。この一帯はマタギの里と呼ばれ、明治に至るまで、狩猟採集を生業としていたマタギが居た所である。

 北東北は、蝦夷が居て、なまはげが居て、がいて、マタギが居る所、大和の支配に同化されていく過程を示すようである。

マタギ資料館を見て、戻る途中、丁度、9:45分の気動車が来るので駅で待っていて写真を撮る。いずこも同じで乗っている人は少ない。

                 

                      マタギ資料館

                                                                                              
             マタギの姿                    あにマタギ駅の気動車

 再び、105号に戻り、阿仁町に出る。ここには、阿仁町伝承館というのがあり、1970年まで掘られていた阿仁鉱山の歴史を示す展示がある。ここは、14世紀に、金、銀の鉱脈が発見され、17世紀に佐竹が銅山を開発して栄えた所である。ここから北の山間は、尾去沢、小阪などの鉱山があり、佐竹藩などの重要な財源となっていた。

時間もあまりなく、一応外観のみで出発。マインランド尾去沢も見たかったがルートを変更したので見ることが出来なかった。

更に進んで、比内の道の駅「ひない」で一休みする。

     

            阿仁町伝承館                     外人技師の宿舎(異人館)

                              
         阿仁六鉱山                     
    道の駅 ひない

 ここから国道103号を進み、津軽街道(208号)を越えて、5km位行くと、万座遺跡、野中堂遺跡があり、有名な大湯環状列石がある。ここには、大湯ストーンサークル館という展示館がある。

日本の環状列石は、縄文中期の終わりごろ作られたといい、東北以外にも各地にあり、ここのものは直径30m以上のものもあり規模が大きい。比較的、安定した温暖な気候が続いた縄文中期の終わり頃には、集落の規模も大きくなり、それなりの社会秩序も生まれて、祭祀の伝統もできてきたのであろうか。

    

           大湯ストーンサークル館               ストーンサークル

 ここから奥州街道に戻り、銅山の町小坂に行く。ここには、小坂銅山から移した建物などを纏めてみることが出来る。

少し遅い昼飯を小坂銅山事務所内のレストランで食って、これらの設備を見る。

鉱山の経営に当たった久原房之介が町に電気を点け、娯楽のために康楽館を作り、様々なことをやった。

これと同じようなことを後に日立鉱山でもやっており、感じる所が多かった。日立にも共楽館という同じようなものがあるが、康楽館と違い手入れもされず雨漏りがしている。こちらは、今でも現役で、常時、芝居などがかかっている。

日立は、鉱山の町から工業の町に変わってしまったからであろうか。案内をしてくれた人から聞かれて恥ずかしくなった。

   

           康楽館(今でも芝居小屋)              康楽館の内部

   

          小坂銅山事務所                    天使館(保育園)

 小坂ICを14時過ぎに乗り、大鰐弘前ICから弘前に入る。弘前の宿は、最初、予約しようとした時は、何処もとれず困ったのだが、たまたま、調べていたら、弘前城のすぐ傍に天然温泉岩木桜の湯ドーミーイン弘前というやたら長い間名前のホテルが、営業を開始することが分かり、ここに予約が出来た。まずは、最勝院五重塔を見て、ホテルに車を置いて、城の桜見物に出かけようということになった。最勝院は金剛山光明寺最勝院と言い、明治の廃仏毀釈で末寺など他の寺がが廃寺となり、その檀徒を引き受けて現在に至ったという。五重塔は江戸初期のもので、日本最北のもので重文になっている。

           

              最勝院五重塔                  本堂

  ホテルから城まで、10分位。ここも染井吉野は殆ど葉桜だが、様々な桜を植えてあり、八重桜など盛りの桜も多い。

城内を一周し、ねぶた村に行き、ねぶた会館でねぶたを見る。土産の酒など買って、帰りに青森銀行記念館(旧国立59銀行)

の前を通る。ここも重文となっている。

    

      弘前城の桜(まだ残っている)             天守閣の周りの染井吉野は葉桜

          
         天主から見た桜はまだら模様               暮れなずむ岩木山   
        

           ねぶた村の展示             ねぶたの太鼓を叩いて見た() 

                    
          

                        青森銀行記念館(旧国立59銀行)

 ホテルは出来たばかりで、綺麗である。最上階の展望温泉から岩木山がよく見えた。

(この日 245km)

 

「北東北から北海道南部の縄文遺跡」

 縄文遺跡は日本中にありますが、この地方には、縄文時代の全期にわたり多くの遺跡があります。縄文文化は、弥生時代以降の新しい渡来人と様々な形で融合していったと思われます。

                    
                      北東北から北海道の縄文遺跡

一万年以上も続いたといわれる、縄文の世界も紀元前8世紀前後から大陸での部族や国家の抗争で稲作と青銅器を持ってきた渡来人、後漢の時代の寒冷化による大陸での戦乱で強力な武器である鉄器を持ってきた渡来人など何回かの渡来人の波が押し寄せました。

関東地方までは、生産性の高い稲作による弥生文化が成立しましたが、東北地方は、寒冷化でそれが定着せず、むしろ、北からの新しい狩猟採集文化と弥生の文化を取り入れた蝦夷の世界が出来たのでしょう。

そして、古墳時代を経て、大和国家が成立し、朝鮮半島をめぐる大陸との抗争が一段落すると、北の征服が始まり、蝦夷が圧迫されていきました。

 関東までは、かなり古くから融和が進み、融和に抵抗した人達も悪しき神などとして祭られたりしたことも多かったのでしょう。

東北の蝦夷は、神になることもなく、融和した人達はあちこちに移住させられたりし、反抗した人達は征服され、逃れた人達は「鬼」となったのでしょう。室町時代になり、ようやく融和が済んだといえるのではないでしょうか。

東北には、古い部族の神が起源であるという神社はありません。蝦夷の名残があるのは、馬を祭る蒼前神社位でしょうか。

 しかし、アイヌと言う形残った北海道の原住民は、鬼にすらなれませんでした。
明治になり、同化政策の元で「土人保護法」ができ差別、圧迫されたのです。

(この法律は、平成9年まで続いていた。そしてようやく原住民として認められたのです)

そして、20世紀の中頃まで、世界中で少数民族は、その生活の基盤が奪われていったのです。

 今、日本人である貴方は、縄文人?渡来人?の混血であり、縄文の血が基盤になっています。

征服者と被征服者がこのようにほぼ完全に融合した民族は世界にも例が無いのではないでしょうか。

その根源は、一万年にわたる縄文文化の中にあるものと思われます。今、これらの遺跡を世界遺産に登録しようという運動が行われていますが、我々は日本人の起源についてもっと学ぶべきではないでしょうか。