みちのくの旅(その10)(再び北東北へーーその3)

               象潟ー秋田―男鹿半島

               (2008年4月29日)

 今日は、朝飯が7:30から、しかも山が通行可能か不明で、通れたにしてもゲートが9:00からしか開かない。ゆっくりと朝風呂に入って外に出て見ると、雪解けの水は凍っている。

8時半近くになって、ようやく秋田側への通行の許可が出て、出発。

   

        大平山荘から見た日本海                 ブルーラインの残雪

           

                 上から見た太平山荘と酒田方面

ブルーラインの最高点に鉾立展望台があるが、その辺りには、結構、車で寝てスキーやら登山やらに行くグループがいた。

ここから下っていくと、秋田側からゲートが開くのを待って登ってきた車の列に会う。この先はすぐに象潟である。

 象潟では、港の方に行く。鳥海山が良く見えた。

   

                   象潟の港付近から鳥海山を見る

また、国道7号に戻り、芭蕉が訪れた蚶満寺に行く。芭蕉が訪れた時は、東の松島と並んで、海に浮かぶ九十九島の間を船で見て、この寺に詣でたというが、1804年のマグニチュード7.1級の地震で隆起し、今は田圃の中に島が松が生えた岡となって残っているのみ。芭蕉が来た最北の地である。

                

                 にかほ市広報誌の象潟航空写真(昔は海の中)

蚶満寺に行くと拝観料を取るのだが、誰も居らず、居るのは沢山の猫。ちょっと周りを見ているとおばさんが出てきて色々と教えてくれた。本堂の後ろに、いわく因縁の船つなぎの石とか幾つかのものがある。

 

                         蚶満寺の参道と山門

                                   
  





     象潟や 雨に西施が ねぶの花












         例によって芭蕉像と句碑

 

                 蚶満寺から見た九十九島と寺の裏手の舟つなぎの石

 時間もあるので、7号線を戻り、象潟歴史資料館に行って見た。ここは中々立派な資料館で、地震の記録、古地図など面白い。

見終わって、職員のおじさんに「なんでにかほ市などと言う分かり難い町名にしたのですか?」と冷やかし半分に聞いて見ると、「向こうの方が人口も多いし、金浦町が向こうに付いたからーー」などと言っていた。

       

           にかほ市(旧象潟町)歴史資料館と鳥海山噴火の歴史 

さて、ここから先は、ひたすら秋田まで進むのみ。途中、少し7号を外れて見たりしたが面白いところはなく、本庄大橋を過ぎ、道の駅「岩城」で昼飯を調達し、秋田市内に入って秋田城跡に行く。ここは古代の東北経営の最前線。733年に作られたと言うが平安末期まで陸奥経営の最前線であった。渤海の使節も初期はここが受け入れていた。

今は護国神社となっている岡の上にあり、城輪柵などと違い、城というにふさわしく規模も小さい。

    

           秋田城跡                        正殿の跡

ここで買ってきたホタテやサザエの串焼きなど食って、秋田駅に向かう。近くの駐車場に車を止めたが、秋田は千葉と同じで街中の地下駐車場が少ない。古いビルが多いためか。女房が12:00着で来ることになっていたが、列車が少し遅れ、駅で待たされた。秋田駅のコンコースは立派である。

 ここから千秋公園(久保田城)に向かい、まずは佐竹資料館に行く。佐竹氏は平安時代以来の名家であるが、秋田もご他聞に漏れず、火災が多かった。そして酒田のごとく、藩を支える商人や他藩の物資の流通拠点でもないから、江戸中期以降の藩の財政は極めて厳しかったと思われる。

千秋公園も桜の名所であるが、染井吉野などは殆ど散って葉桜状態。八重桜が少し咲いているのみ。

この城も、前田の金沢と同じく天守閣の無い平城で、徳川に他意がないことを示すのに苦労した様子が分かる。しかし、明治維新で朝廷側について庄内藩等と戦って城が残ったのに、明治13年の大火で焼けてしまい、城の中心をなす御隅櫓も今あるのは展示と展望用に造られたもの。

   

       秋田駅コンコース                 久保田城公園口(すでに桜は終わり)

               

            桜の時期の御隅櫓  残念!!

城の西側を降りて少し歩くと、秋田竿灯の展示館であるねぶり流し館がある。丁度、1時から実演をやっていた。

子供用から、大人用まで様々なサイズの竿灯があり、大会で優勝したとか言う若者が実演している。

              

               ねぶり流し館                    竿灯の実演

 ここから少し歩くと、旧秋田銀行本店の赤れんが郷土館があり、立ち寄った。
こんなことで2時を回ってしまい、宿泊地の男鹿半島に出発。途中の秋田県博物館を見る時間がなかった。ここには、菅江真澄の記録などもあり、残念。一人なら、市内の見物を省略したのにーーー

「菅江真澄」(1754−1829)尾張の人。久保田藩に来て北東北をくまなく歩き、膨大な記録を残す。象潟から南には芭蕉(1655−1694)の句碑が沢山あるが、男鹿半島などの名所には、最近立てた当時の姿を書いた真澄の文章の看板が多く見られる。

男鹿半島へは、国道7号からそれ、秋田火力の横の工業地帯を通る。道幅が広く車が少なくて快適である。更に国道101号を進んで、男鹿半島を時計回りに進む。

 海岸線の道を進んで鵜の崎でなぎさなど見て、門前に着く。ここは名前のごとく山の中に重文の五社堂がある。

    

       鵜の崎辺りから男鹿半島を見る              門前の辺り

昔、5人の鬼(なまはげ)がいて悪さをするので、村人が一晩に1000段の石段を作ったら許してやろうと言い、鬼は999段まで作ったが村人が鶏の声を真似てだまし、鬼が去ったと言う。この話は、国東半島の熊野磨崖仏の99段の乱積の石段と同じような話(こちらの鬼は1人)である。男鹿半島一帯は、九州の国東半島と同様、修験道の山であったのであろう。

999段では時間は無い。入り口で止め。

更に進んで、戸賀から八望台に向かう。ここには広い駐車場を備えた展望台がある。高松宮が来て命名したとかで、整備されたのだろう。しかし、今は一軒ある休憩所も廃業したのか閉まっている。

展望台からは、火山活動で出来たマール湖(一の潟、二の潟、三の潟)を望むことが出来る。マール湖とはマグマが水蒸気爆発で地層を飛ばした後に出来た湖のことだそうである。半島の周回道路から少し外れているので来る人も少ないのかもしれない。(マール湖とは粘り気のあるものを熱した時にできる泡が破裂した後と同じ)

  

 八望台展望台                          二の潟

 再び海岸に出て、北端の入道崎へ。ここは観光地の目玉で、4時半近くになったが人が多い。広い芝生があり、直線状に切った石の列が北に向かって並んでいる。また、観光客用の店も多い。

 

     入道崎灯台と北に伸びる石柱             石柱の先の北緯40度のモニュメント

 閉めようとしていた店でコーヒーを飲んで、宿の国民宿舎男鹿に17:30頃到着。ここは、露天風呂は無いが、源泉掛け流しといのが良い。

 

(この日206km)

 

佐竹氏

 佐竹氏は清和源氏の血を引く源義家の弟の義光が、奥州征伐に参加し、常陸の国で子を儲け、孫の昌義常陸奥七郡を与えられて起こした家柄です。

その後、源頼朝に攻められたり、山入一揆といわれる跡目騒動で100年以上も内紛があったりしたが、戦国時代、義重上杉謙信と組んで勢力を拡大し、小田原攻め秀吉に味方し、常陸国54万石の領主として認められたが、その子、義宣関が原の戦の去就が明確でなかったとして秋田20万石(実高40万石と言われる)に移された。この義宣久保田藩の始祖となる。

とは言え、徳川に完全に味方したにしても、常陸は江戸に近すぎるからいずれどこかに移されたろうと思われる。

(エピソード1)

 義宣の絵姿があります。不思議なことに片足が書かれていません。(膝を組んでいるにしては変な絵ですね) 生涯、義宣に仕えた梅津政影が残した詳細な日記にもこの辺のことが書かれています。どうやら、義宣は若い時に梅毒?にかかり、足に吹き出物が出来で苦労していたようです。

茨城県の下館に飛び地を持っていて、ここにしばしば塩原や草津の湯を運ばせたりして湯治をしていた記録が有ります。

この梅毒は、どうやら、若き義宣が朝鮮の役の時、九州の名護屋に布陣し、周りの大名達と酒宴やら何やらで交流したりして、その時、遊び女から移されたらしいのです。あまりに苦しみが続いたので病んだ足を描かせなかったのか、描かなかったのか??

                           

                              佐竹義宣

(エピソード2)

 甲斐武田家の始祖は、佐竹氏の始祖昌義といとこに当たり、今のひたちなか市に拠点を持っていましたが、周囲の豪族と争って朝廷から甲斐に移されたと言います。

 時は流れて、家康は、武田家が滅んだのを痛み、再興を考えていました。そして武田家の家臣の娘?に生ませた信吉を、佐竹が移された後の水戸にいれ、水戸藩25万石として武田家を再興しました。しかし、信吉が21歳で死亡して子が無かったため断絶、今の水戸徳川家になったのです。

 

(エピソード3)

 佐竹は、常陸の鉱山を開発し、金などを取り、軍資金とし、小田原征伐で秀吉に面会する時にも土産としてもって行きました。

国替えの時、鉱山の山師は皆秋田に連れて行って、そちらで開発を行わせたと言います。

しかし、常陸を継いだのは、武田信吉で、武田の遺臣を家康が付けたりした為、甲斐の鉱山や治水技術が伝わり、水戸藩になってからも甲斐で金山発掘に従事していたと言う永田親子に、治水事業を行わせ、大田の水道、久慈川の辰の関、那珂川の小場江などの工事を完成させました。永田円水の碑常陸太田にあります。

 

(エピソード4)

昔、高天原から醜女(しこめ)を2艘の船に乗せて追放した。一艘は尾張に、もう一艘は常陸に流れ着いた。その後、時は二千年ほど流れ、徳川が天下を統一したが、尾張の前田や常陸の佐竹は、領国が変わる時、美女を皆連れて行ってしまったとか。

何の因果か、小生は常陸と尾張に住んだ