みちのくの旅(その9)(再び北東北へーーその2)

                     羽黒山、最上川から酒田、鳥海山へ

                        (2008年4月28日)

 昨夜、早く寝てしまったので、早起きでホテルの朝飯は止めて6時に出発。コンビニでサンドなど買って済ます。

羽黒山へは、県道47号線で鶴岡の街中を抜ける必要があるが、朝早く車もなく快調に抜けられた。県道の大鳥居をぬけ、その先から旧道に入る。

    

        鶴岡郊外の農業地帯                        県道の大鳥居(朝は逆光)

左側に公園があり、なにやら碑が見えた。立ち寄ってみると戦前に建てられた碑文で蝦夷館とある。

説明文によると、蝦夷の館またはチャシの跡と言う言い伝えがあり、東屋のある小高い岡の周辺には空堀があって、館の跡のようになっている。この堀が何時の時代かは不明としても、やはり蝦夷に関係したことは間違いないのであろう。

(後で調べたら、北東北には、蝦夷館跡というと所が沢山ある。北海道のチャシなどとは少し違って、かなり本格的な城跡といった感じがする。)

       

                 蝦夷館跡(この中は蝦夷館公園となっている)

             

              館の堀跡(この辺にはまだ桜が咲いている)

 ここを過ぎて、旧道側を進むと、宿坊が多くある。この宿坊は、以前は講中の団体客対応であったが、講が減り、今は一般人も受け入れ、まあ、旅館と言っても良い。大部屋が多く、個人客の受け入れが難しい構造なのが悩みとか。

                 

                            代表的な宿坊

    

             宿坊の道筋の芭蕉の句碑など

さらに進むと、羽黒山参道の入り口に着く。ここにはいでは文化記念館などもあるが、朝、早すぎて開いていない。参道に進むには、まずは鳥居から仁王門をくぐるが、今の名前は随身門。

                    

                          表参道入り口(奥が随身門)

 ここから、少し起伏のある道を進み、朱塗りの神橋を渡ると右側に須賀の滝がある。

       

          神橋                                   須賀の滝

さらに進むと国宝の五重塔がある。平将門が建てたと言う言い伝えもあるようだが定かでは無いようだ。この先は2446段の参道が続く。ここの杉並木も有名で、塔の近くの爺杉は樹齢千年といわれる。

                

        翁杉                             国宝五重塔

明治以前は、今の末社がある辺りから参道一帯には、参道に沿っていくつもの坊や院があり、芭蕉が泊まったという南谷別院も、参道の途中にあった。明治の廃仏毀釈の時、明治政府から使わされた神祇官が、これらを廃し、僧侶を復飾させるなど様々なことを行なったと言う。もともと、修験道の場であった月山、湯殿山には全体を統括できるような寺が無かったからここが中心となったとも言うが、湯殿山参拝の中心であった大日坊、注連寺などとの対立は、それ以前からもあったらしい。

 羽黒山の縁起は、蘇我氏に討たれた崇峻天皇の子である蜂子皇子八乙女の招きで由良海岸に上陸し、三本足の霊鳥に導かれ羽黒山に至りここを開き、その後月山、湯殿山を開いたと言うである。月山神社は、延喜式にも出ている古い神社で、明治になってからの格付けは、月山が官弊大社、他の二社が官弊小社であった。一方、大日坊の言い分は、大日坊は弘法大師が開き、その後、湯殿山総本寺となったと言うものであるが、全国的に見ても、そもそもの成り立ちが大和との関係が薄い山岳宗教の寺院は、明治の廃仏毀釈で最も被害を受けており、何処がトップになるかといえば、羽黒山と言う事になろう。

 さて、何年か前に来た時には、家族一同、この参道を上まで歩いたが、今後の旅を考えるといささかきついので、止めて戻り、有料道路から上がることにした。

道路の入り口には、7:30前に着いていまい、まだ、管理人もいない。上に上がると、雪かきで集めた雪が少し残った所もあるが、他にはなく、やはり、急激に暖かくなったのだろう。

    

         羽黒山神社の入り口付近                          雪が残る鐘楼

     

             三社合祀殿                               合祀殿の扁額

                  

                            蜂子皇子の社

さて、この羽黒山神社には、参道の中腹と神社前の芭蕉の句碑があるが、芭蕉はこの地方を訪れ、各所で俳句を詠んでおり、至る所で、奥の細道、芭蕉像、句碑を見ることが出来る。

 





  芭蕉像と句碑

   語られぬ 湯殿をぬらす 袂かな
   
   雲の峰  いくつ崩れて 月の山

   涼しさや ほの三日月の 羽黒山









     

                       月山方向を望む

 8時近くになり、戻ろうと駐車場に向かう途中、これから出勤の巫女らしい可愛い美人に合う。そして有料道路の料金所に8時ちょっとすぎに着き、金を払って出る。

ここから、県道45号で山を下り、立谷沢川に沿って、旧道を進むと、田起こしが済んで水を張る直前の田が一面に広がり、山の新緑、桜などが素晴しく、昔の農村風景がそのまま再現されている。

                 

                          最上川近くの農村(山は桜)

 さらに進むと、清川で最上川と合流する。ここには、幕末の志士、清河八郎記念館があるが、まだ時間が早い。

最上川沿いの国道47号を上流に向かう。ここが最上峡で対岸は切り立った山で、朝日に映える新緑が素晴しいが、例によって谷沿いの道は、途中で車を止めてゆっくりと見ることは出来ない。川下り舟で無いと対岸にも行くことはできない所が15kmほど続き、古口に着く。

 江戸時代、最上川酒田港への水運で多くの舟が行き来したというが、かなりの急流であり、上りが大変ではないかと思っていたが、日本海からの風が常に上流に向かって吹いており、谷間で強められていることが実感できた。新庄辺りから、下りで数日、上りで一週間から十日位であったと言う。

                 

                               最上川風景                     

 渓谷の道を過ぎると、少し開けた古口に出る。ここに戸沢藩船番所が有って、行き来の舟の監視などを行っていた。
その番所を復元した展示館がある。まだ9時前で、前を通り先へ進む。この辺にも、芭蕉の句碑などがあちこちにある。

この先で、最上川は、2回、直角に曲がり、二つ目の曲がり角の岡の上に、なんとも奇妙な道の駅「とざわ」がある。
ここ戸沢村は、韓国との交流が深いとかで、高麗館と言う韓国風の建物、庭園などから成り立っている。

    

              戸沢藩船番所                          道の駅とざわ

 当初予定は、ここから引き返すつもりであったが、時間も早いので、真室川経由で酒田に戻ることにして、新庄から真室川に向かう。真室川への道もすでに桜が終わっていた。この町は、真室川音頭で有名であるが、戦前には陸軍の飛行場があったが、大きな産業もなく、なんとなく寂れた感じである。
歴史民俗資料館に行くと閉鎖されていた。町の様子が良く分からないので、真室川駅に行くと、ここは中々の駅舎である。この他、梅里苑という温泉設備があるが、反対方向でもありやめて、国道344号酒田に向かう。

       

                          真室川駅

 この国道は、谷あいを延々と酒田方向に進む。そして、開けた庄内平野に出ると一面の水田で、遠くに鳥海山が見える。

この時間帯は、少し雲がかかっていた。そして少し進むと、蝦夷対策と開拓の拠点であった城輪柵跡がある。平野の真ん中にある一辺が720mと言う大きな遺跡で、柵と言っても前に見た多賀城跡と同じく政庁の跡といった感じである。

    

 城輪柵跡(鳥海山を望む)

 ここを、9:40過ぎに出て、さらに344号を進んで、酒田の中心街に向かい、羽越本線を越えた所に、本間美術館がある。

ここはかの本間家の別宅で市に寄贈し、美術館となっているもの。丁度、最上川展と言うのをやっていて、地元の画家などが描いた最上川の風景とその場所の写真が並べて展示されていた。また、旧本間家清遠閣の庭園もあり、つつじの時期には素晴しいという。ここから、本間家旧本邸に向かう。ここは、武家屋敷と商家を兼ねた造りと言われ、本間家の財力を感じさせられる。

 

                      清遠閣の庭園                                                旧本邸の玄関

 ここから少し戻って、酒田市立資料館に行く。ここは庄内地方の風俗、歴史などについての展示がなされている。

秋田などもそうだが、風の激しいこの地方は、しばしば大火が起こり、1656年から1856年までの200年間で、100戸以上の火災が5年に一度、500戸以上が12年に一度、1000戸以上が40年に一度、2000戸以上が67年に一度起こっていると言う。

その他、鳥海山の噴火や地震も多かった。戦後でも、昭和51年10月に大火に見舞われている。

歴史資料館には大抵の所にある縄文時代からの遺跡の分布図から縄文中期の海岸線の位置が大体想像できる。

今後、地球温暖化が進んでいくと、日本の稲作地帯のかなりの部分は海面下となり、今でさえ、低い穀物自給率はさらに下がっていくことは間違いないと思う。この辺のことを、もっと真剣に考え皆に知らしめていくことが国としての仕事と思うのだが。

                     

            酒田市立資料館資料より (館名は土門拳が病気で右手が使えず左手で書いたもの)

 ここから、更に最上川河口に向かい、明治時代以来、米の貯蔵(現在でも使われている)と受け渡しの蔵である山居倉庫に行く。

夏の日差しを遮るための欅の並木や、二重にして通風を工夫した土蔵倉庫の屋根などがあり、倉庫の一部は庄内米歴史資料館となっている。

    

                 山居倉庫                        日よけの欅並木

        

                    米の荷揚げの船着場と荷揚げの小船

 さて、12時半を過ぎてしまったので、何処かで飯を食おうと、酒田港フェリー岸壁に行くと二階に「とびしま」と言う店があり、新しい魚介類を食わせてくれる。飛島とは、酒井港の沖にある島で、有史以来、日本海の交流の中継地となった所で、源氏に負けた平家の落人がここに来て、武器を埋め、漁師になったと言う場所などもある。

発着場の3階は、海洋センターとなっており、造船会社から寄贈された色々な船舶の模型、おなじみ北前舟の由来などが展示されていた。まだ、時間もあるので、酒井港から最上川の河口の突堤の先まで行って見た。堤防を延々と行ったが、行き止まり。釣りをしている人が数人いるのみで、車の方向転換に苦労した。

      

             庄内平野の全景(黄丸:フェリー港 赤丸:突堤)    

             
  
                 突堤の先(ここからは車でいけない)

 さて、まだ時間もあるので、フェリー港の少し先の日和山公園に行ってみた。ここの池には、北前舟の1/2縮尺模型が池に浮かべてあり、西廻航路を開いたと言う河村瑞賢の像や、港の位置を知らせる常夜灯、明治に作られた日本でも最古に属する木造の灯台などがある。すぐ裏には、海の守り神である金比羅宮があるが、荒れ果てていた。

  

                       千石船(縮尺1/2)と海を臨む河村瑞賢の像

 ここを出て、もう一度市内に戻り、唐門で有名だと言う浄福寺、三重塔のある海曼寺などを横目で見て、進む。旧市街は道も狭い所が多く場所を探すのに苦労した。市内観光は、自転車がいい。

街中を抜けて、再び344号線を行き、途中から県道60号遊佐に向かって進む。この道は、一面の水田の中を通り、右前方に鳥海山を望む見晴らしのいい道であるが、皆車を飛ばして来るので写真を撮るのに苦労したが、丁度、特急列車が通った。

この辺の水田は、日立と同じ連休の頃に田植えをするようである。

       

                       県道から見た鳥海山と特急電車

これから向かう大物忌神社も修験道であり、鳥海大権現と言われており、鳥海山頂に神宮があるが、下宮が、遊佐に近い蕨岡口と三崎に近い吹浦口にあり、それぞれが、真言、天台で御互いに正当争いを江戸時代以前からやっていたという。そして、幕府の仲裁で、山頂が本宮となった。

今回は、吹浦口の神社に立ち寄った。

     

                       大物忌神社(奥の鳥居から石段を登る)      

ここから、国道7号の旧道を海岸線に沿って進み、こちら側の有耶無耶の関に行くことにした。こちらの関は、秋田と山形の県境にあったが、場所が定かではない。

NAVIや地図で見た関の場所と思われる辺りにあるのはラブホテルである。

江戸時代までの旧道は、この先の三崎公園の中を抜けていたらしく、一里塚の跡などもあるが、この公園が二つの県に跨っているので、説明が分裂していて定かでない。

古代には、ここは、笹谷峠と同じ難所で、「手長足長」という鬼がいて旅人を食っていた。3本足の烏が鬼がいる時は「有耶」居ない時は「無耶」と言って知らせていた。慈覚大師もつかまったが、鬼を説得して悪行を止めさせた。そして人が食いたくなると「タブの実」を食わせたと言う。そしてここを去る時、タブの木を沢山植えたのでそれが多いとか言われているとのこと。

何処か分からないので、すこし戻って、山形側から狭い道を歩いて入ったのが失敗で、散々歩いて秋田側に出たが、場所不明。

                    

                       散々歩いて辿り着いた三崎公園の海側

16時になったので、7号のバイパスから鳥海山ブルーラインに入り、4合目(標高1000m)の国民宿舎太平山荘を目指す。

ここは、今年は4月26日から通行可能となったが、5時でゲートが閉まって上に行けない。進んでいくと、通行禁止の看板が出ている。しかし、大平山荘は更に上で、登っていくと、ゲートがしまっており、番人がいる。聞くと、昨日、山頂付近に雪が降り、上の方は通行禁止となっているとか。山荘までならOKと言うことで、通行を許可してくれた。

九十九折の道を登っていくと、だんだんと除雪した雪が深くなるが、側溝が広く、完備されていて融雪の水は道路に流れない。

これなら、明日は問題ないだろうと思いながら登っていき、4時半過ぎに、山荘に着く。

    

        ブルーラインはまだ雪が残る                    太平山荘

鳥海山は、冬はスキー、夏は登山が盛んで、裏側の祓川とこちら側が主な登山口で、山荘は今日から宿泊を始め、日帰り温泉や食事の場所としてスキー客や登山客が使っている。

初日とあって、宿泊客は10人前後であった。管理人も今年は雪が少ないと言っていたが周りは雪景色で、日本海側も少し煙っていて良く見えなかった。 

(この日 210km)距離数は少なかったが行った所は多かった。

 

庄内地方のIF

 もしも、この地方がもう少し南にあり、ある程度、安定的に稲作が出来、鳥海山が噴火や地震を繰り返したりしなければ、たぶん、出雲地方と同じように、弥生時代に大きな国ができ、大和とも対抗できる勢力になっていたかもしれません。

紀元前5世紀の大噴火を始め、9世紀以降、記録にあるだけでも、大きな噴火が10回あり、地震も多かったようです。それを、神の怒りと考え神をなだめるため、朝廷は鳥海山の称号をその都度高いものにして行ったと言います。

 それでも、この地方は古代から豊かな自然に恵まれ、変化に富んだ歴史に彩られています。

数年前、藤沢周平に魅せられて、彼の小説を殆ど読みましたが、今、それらを思い出すと、小説の背景がわかってきたような気がします。