みちのくの旅(その8)(再び北東北へーーその1)
笹谷街道から湯殿山、鶴岡へ
〈2008年4月27日〉
今日は、長旅になる。4時過ぎに起き、少し早かったのでトンネルの多い日立南ICから乗るのはやめて、日立中央ICまで町の中を行く。さすがに車は走っておらず、5時に常磐道に乗った。
高速も誰も走っておらず、快調に進みいつも休憩する磐越道の安達太良高原SAに着いたのが6時少し前で、店も準備中。ちょっと休んで先に進む。
東北道では車が増えてきたが、国見SAまで進み、ここで朝食とする。予定よりかなり早い。山形自動車道に入り、笹谷ICで降り、最初の目的地の笹谷峠に国道286号線を進む。
笹谷峠の道 笹谷峠の国道286号線(この先は山道)
ここは、昔は笹谷街道と呼ばれ、平安時代から奥州と羽州を結ぶ重要な街道であった。比較的早い時代に航路で大和と結ばれていた日本海側(単に結ばれていただけではなく、鳥海山の噴火や地震で、この地方の縄文文化は壊滅状態にあったと思われる)に比べ、仙台平野から北の太平洋側の補給は陸路が中心であり、また蝦夷の勢力が強く、この街道は、蝦夷との戦いにおける、日本海側と太平洋側を結ぶ重要な補給路となっていたと思われる。
江戸時代には、羽州街道(国見から奥州街道をわかれ、山形、秋田方面に抜ける)が整備されるまでは、東北13藩の大名は参勤交代にこの街道を使ったという。
明治以降も、ここは難所で国道になってからも冬は閉鎖され、山形自動車道の笹谷トンネルが出来て自由に行き来が出来るようになったのである。
古代には、この峠付近に鬼が出て旅人を食ったと言うが、何時のころからか霊鳥が住み着き、鬼が居るときは「有耶!」と鳴き、居ない時は「無耶!」と鳴いて旅人に知らせるようになったという。
峠には、八丁平と言われる平坦な所があり、ここに歌の枕にもなっている有耶無耶の関がある。
八丁平からの風景(春らしい花も咲いている)
駐車場があって、そこには斉藤茂吉の歌碑などもあり、今は遊歩道になっている旧道に沿って進むと関の跡があった。
この周辺には、死んだ旅人を弔う寺や尼寺の跡、六地蔵などもあるが、まだ雪が残っているので、先に進むのは止めた。
斉藤茂吉の碑
ふた国の
生きのたづきの
あいかよふ
この峠路を
愛しむわれは
有耶無耶の関跡
峠を8:30前に出て、山形蔵王ICから再び山形道に乗る。Fig01にある関沢ICは、仙台方面への乗り口しかない。月山ICから月山道路に入り、有料の湯殿山道路に入り、山道を登っていくと、路肩はまだ雪が積もっている。しかし、山菜(蕗)取りの車が沢山いた。
湯殿山神社への道 路傍には蕗のとうが
湯殿山神社は、まだ雪の中で、下の駐車場からご神体のある所まで歩く。40代後半であろうか、今日は急に仕事が休みになったのでここへ来たという男と二人で登った。入り口で紙形をもらってお払いをしてもらい、からだの各所の穢れを拭き取って、谷に投げる。
ここには、いわゆる神社はない。もともと、真言密教の最高の修行の場で、女人禁制であった所であるが、例によって廃仏毀釈で神社となったもの。今は、月山、羽黒山とともに出羽三山神社というが、元は山岳宗教の聖地であった。
社殿などない代わり、赤い大きな岩が御神体で、いわゆる女性のおまんじゅうの形で、岩の割れ目からお湯が出ている。靴を脱いで上まで上がってお参りをする。当然、写真撮影は禁止。
湯殿山神社の大鳥居(行った時はまだ雪) ご神体の下手なイメージ
足湯などもある
神社から見た景色(山はまだ雪が多い)
足腰健康お守りなるものを授けてもらい、10:40に下山。
月山道路に戻り、少し、山中に入った大日坊と注連寺に行く。江戸は、鶴岡から六十里越街道という山道を山形方面に抜けた。
湯殿山参拝の人達は、注縄寺で注連縄をもらい、これを掛けて参拝に向かった。その先が、大日坊で女人はここまでで、ここから湯殿山を拝遥したのである。
大日坊は、湯殿山総本寺大日坊瀧水寺と称し、坊さんが熱心に由来を説明してくれた所によると、ここは、春日局が家光が将軍となれるように参拝したりして、江戸時代は大きな寺院であった。羽黒山は廃仏毀釈でうまいことやって神社となって今日も栄えているが、こちらは反抗したため明治8年に焼かれてしまい、今のようなわびしい寺になったと言う。(実際は、羽黒山でも僧侶の抵抗は大きかったと言う)
三体の即身仏も、二体はその時に焼かれて、遺言で別にお堂を建てて祭っていた真如海上人のみが残ったと言う。
修験道の寺で、檀家と言うものがなく、昭和11年の地すべりでここに移ったということであった。上人は92歳で即身仏となり、この時、最後に漆を飲んで消毒?したので、今でも、身体は何の加工もしないでそのまま残っていると言う。
商人の衣替えした時の布でお守りを作ったり、色々な名前の灯明を造って、左官にご利益を説くなど、ここの坊さんは、まことに商売熱心である。何もしないのも気の毒と、ボケ防止のお灯明をあげてきた。
大日坊山門(重文) 本殿(かなり派手派手)
パンフレットにあった即身仏(真如海上人)
注連寺にも鉄門海上人の即身仏が有ったが、こちらは防腐処理をしていた。ここは、空海が祈祷所として立てたと言われ、その下で修行をしたという七五三掛桜がある。(行った時は、少し早かった)
こちらは、本堂の天井に色々な画家が絵を描いており、森敦の小説「月山」の舞台でもあり、森敦文庫がある。
注連寺 七五三掛桜(花の色が変わる)
この辺りの家(屋根に煙突に注目)
この辺りの家の屋根には、特長のある煙突がついている。この煙突は、風によって回転し、煙が常に風が吹いていく方向に出て行くようになっている。面白い構造である。
予定よりかなり早く進んできたが、大日坊の坊さんの話が長く、注連寺を出た時は12時過ぎとなり、国道112号の道の駅「月山」で昼食を済ます。少し進んで、庄内あさひICで再び山形道に乗り、鶴岡ICで降りて由良海岸に出た。
ここには、白山島と言う島があり、東北の「江ノ島」といわれているとか。島との間は巾の狭い橋で結ばれている。島には、八乙女の伝説があり、上古、都を追われた蜂子皇子が岩の上で舞う八人の乙女を見て、上陸、三本足の烏に導かれて、出羽三山に赴き神社を開いたと言う。そしてここの洞窟は羽黒山に繋がっているという。
島に渡ると、すぐ横に釣堀があり、日曜日と言うこともあって、大勢、釣りをしていた。島の山頂には白山神社があり、数百段の階段を上ってみたが、この頃から風が強くなり、雨も降り出した。帰りの橋の上は、巾が狭く、欄干も低く、風で飛ばされそうな感じであった。
白山島 八乙女の像
ここを、14時に出て鶴岡市内に向かう。鶴岡市は、昔の酒井家鶴岡藩(一般に庄内藩とも言う)の城下町であったが平成の大合併で東北地方で最大の面積を持つ市となった。藤沢周平の出身地であり、彼の小説の舞台である海坂藩はここである。
藤沢周平の小説も面白いが、酒井家の江戸時代を通じての歴史もまた、波乱万丈である。商人の本間家との連携で藩政を立て直し、三方領地替えの陰謀にも領民が立ち上がって反抗し、幕末の戊辰戦争にも幕府方でありながら、会津藩のような悲劇もなく、終わりを全うした。
しかし、城跡の鶴岡公園は、桜の名所でもあるが、すでに葉桜となってしまっていた。これから先が思いやられる。写真は、今年の桜情報から借用したもので、背景は、致道博物館内の重文「旧西田川郡役所」。
鶴岡公園の桜(4/17頃) 小生が行った時(4/27)
城のそばにある大寶館と致道博物館を見学。大寶館は大正天皇の即位を記念して開館した洋風建築で、明治以降のこの地方の著名人が紹介されている。
致道博物館は、藩校の致道館から取った名前で、三の丸跡に造られており、藩主の酒井氏が戦後、寄付して財団法人として発足したものである。
大宝館 致道博物館
旧西田川郡役場 月山地区の古民家(養蚕農家)
旧西田川郡役場内は、歴史資料館となっており、この地方の太古からの発掘品などもあったが、度重なる鳥海山の噴火、地震などで、縄文時代以来、色々な変化が起こっていることを知った。縄文末期に、大きな災害が発生したのがその後の弥生から大和までの文化が太平洋側よりも入りやすくなった要因の一つかもしれない。
一応、市内を見て、時間はまだ3時少し過ぎなので、竜神の寺として有名な善宝寺まで行くことにした。昭和40年代までは善宝寺鉄道が鶴岡ー善宝寺―湯野浜を結んでいたが今はなく、善宝駅を使った鉄道記念館も有ったようであるが、今は閉鎖されている。
廃館となった博物館の電車
善宝寺は、平安時代の創設であるが、室町時代に曹洞宗の寺となり、江戸時代、海運の発達とともに発展し、漁業の関係者の信仰も増えた。五重塔は明治になってからの創設。寺から少し下って山道を行くと、貝食いの池があり、ここに竜神が住むという。そして、20年ほど前、この池にいた鯉の頭が人の顔に似ているということで人面魚としてブームとなった。
善宝手五重塔
善宝寺山門
貝食いの池(竜神がすむと言う) 人面魚?
竜神の社
まだ、4時なので、湯野浜温泉に向かう。温泉にでも入ろうと、温泉町にしては珍しいロータリーみたいなとことの案内所で聞くと公共の湯もあるが駐車場が満杯だと言う。実は、ここは昔の鉄道の終着駅であった。そこで聞いた日帰り温泉の龍の湯と言う所にいき、疲れを癒す。
龍の湯
今夜の宿は、最近増えてきたインター近くのビジネスホテル(ルートイン鶴岡)。部屋は広めでLANもある。今日はかなりの長旅であった。
(この日455km)
廃仏毀釈
明治政府は、天皇は神であるという神道による神政政治を目指し、神仏分離令などを発令し神道を国家統合の機関としようとした。これによって、仏教と神道を分離し、仏教の力を弱めようと言う廃仏毀釈の様々な運動が行われた。特に、出羽三山は山岳宗教の中心地であり、明治政府は神祈官を派遣し、徹底的な改革?を強要した。
この運動には、本質的に問題がある。東大寺は仏教であるが、造ったのは誰かと言うことになると問題は簡単ではない。
東北は、このような古代からのしがらみも無く、戊辰戦争で誰に味方し、何藩であったかなど様々な要因があり、寺院の変革が厳しく行われたのであろう。薩摩藩や土佐藩などとまた違った意味での変革であったような気がする。
しかし、今までの宗教を破壊して、新しいものと替えても、あまり混乱が起こらなかったのはなぜなのだろうか?
山岳宗教には、檀家と言った確たる信者を持たなかったこともあるが、日本人には、神も仏も皆同じと言う考えが本質的に続いてきたからではないかと思われる。
それにしても、この運動で破壊された文化財はあまりにも多かった。