みちのくの旅(その7)(北東北をめぐるーその3)日本海側へ

 鯵ヶ沢から能代にいたる日本海側は、白神山地が海に迫り、人が住むには適していなかった所です。しかし、白神山地が世界遺産となり、不老不死温泉、十二湖などの観光資源も多くあります。今回は、ここから八郎潟ヲと通り、秋田道から帰宅するルートです。

しかし、ここから日立はずいぶんと遠いというのが実感です。

 

(第3日 9/25 続き)

 県道3号を川沿いに下ると鯵ヶ沢です。ここは、江戸時代まで、北前舟の寄港地として栄えた所です。ここから日本海沿いに国道101号(大間越街道)を南下します。この道は五能線と並行して走りしばしば交差し、狭い街中の道と拡幅された所が入り混じっています。

 途中、大戸瀬崎という所に、岩が畳の様に広がる千畳敷があり、遠くに竜飛岬、その先の北海道が見えます。

                               

                        千畳敷から竜飛岬、北海道を望む

 ここから、海岸線を五能線とともに下って、深浦町に抜けていきますが、日本海の景色が素晴しいというのですが、道が曲がりくねっている所が多く、夕日が目に入って運転がしにくい時間帯です。

深浦町の市街地を過ぎ、黄金崎に着くころは、5時近くになりました。

ここには、当初泊まる予定だったが宿が取れなかった不老不死温泉があります。ここの海岸の露天風呂は夕日の沈む時が最高だというので、入っていくことにしました。

丁度いい時間帯でもあり、浴衣を着た大勢の宿泊客が露天風呂に向かっています。海岸に開けた露天風呂は男女が少し離れて、右が女、左が男となっていますがーーー

横のかごに福を入れて入ろうとすると、数十平米の男子露天風呂は満員しかも若い女の子も友達連れやアベックで大勢入っています。
                    
一応、最近のテレビ式に棟にタオルなどを巻いたりしていますが、中にはふちに腰をかけていたり、男のこの胸毛を引っ張り、「毛が濃いのねえ!」などと言ったりして、挙句の果ては、「向こうは混んでいてばあ様ばっかり!!」などと勝手なことを言っているのもいます。

ここに示した宿の広告の写真の浴槽に男女合わせて30人以上は入っているのですから、女は群れを成すと強い!!

               

                       不老不死温泉露天風呂(男女30人以上入ったらどうなると思いますか?)

温泉を出て、夕暮れの道を十二湖の入り口に進み、少し入ったところに、今夜の宿「末丸旅館」がありました。

小さな旅館で池の傍にあり、夫婦でやっており、登山客などを泊めているようです。近くの海で取れた魚や山菜の夕食はまあまあでした。

末丸旅館

(この日286km)

 

(第4日 9/26)

 昨夜、白神に行くと言っていた隣の部屋の若者が6時前から起き出してがたがたやっていると思ったら、宿の大きな起床の音楽が流れ、皆、目がさめました。どの道、朝飯前に十二湖の方に行って見ようとしていたので宿を出ると、宿の前は、八景の池で、ここから二つ目の池西湖、東湖、鶏頭場の池などを通り、挑戦館という所に車を置いて青池に向かう。まだ、朝も早く少し薄暗い木陰の池は青く済んで神秘的な色をたたえています。

さらにぶな林を過ぎて、沸壷の池に行くと、湧水が流れ出しており、ここも、青い色に染まっている。流れに沿って下っていくと養魚場があり、そこから、東湖の横の駐車場に出ました。戻るのは面倒なので、娘に車を取りに行かせて一休み。

 

                       




青池(落ち葉が散っている)












   

    沸壷の池(湧水があるので落ち葉が無い)          
ここは普通の池  

                    
                         八景の池(ボートに乗る)

少し上のほうに旅館の車が置いてあったので、後で聞くと、まいたけの城があり見に行ったとのこと。しかし、日曜には誰かに採られてしまうかもしれないと言っていました。

まだ、飯までに時間があるので、宿の前の池のボートを借りて乗ってみました、オールの長さが左右違っていてまっすぐ進まず往生しました。

 8時前に食事も終え、予定より早いので、近くの日本キャニオンに行って見ました。グランドキャニオンのようだというのだが、規模など全く比較にはならない。

こちらは地震による崩壊で出来たもので、緑の山との対照で綺麗な所です。十二湖なども、1704年の大地震で出来たといいます。象潟が陸地と化したのが1804年の地震だそうで、

岩木山の噴火、鳥海山の噴火なども含めると、数百年に一度くらいは大きな地殻変動が起こっているようです。

                   

                                  日本キャニオン

宿に別れを告げて、101号を南下していくと、右は日本海、左は白神山地、途中、狸が3匹も轢かれていましたが、動物出没の標識も無いので、台風の影響で山の餌がなくなっていたのでしょうか?

途中、須郷崎の観光案内所がありますが、海がよく見える所です。鯵ヶ沢から能代に至る道は、日本海を見るのに良い所です。

                     

                                須郷崎から見た日本海

さらに進んで、能代の近くの道の駅「みねはま」によると、「あきたこまち」の新米が売っていました。女房が八郎潟に行くのでそっちでも売っているだろうと言うので、あちらは大口契約だから売ってないかも知れないと言って、とりあえず、自分の家の分だけを買いました。

さらに進んで、米代川の能代大橋を渡ると能代の市街地で、今回始めて都会の道を通る気がしました。市内を過ぎて芝童森という所で国道7号(羽州街道)にはいり、左に一面の秋の田を見ながら走り、いよいよ干拓地内の42号線に入ります。42号線と交差する54号線で東側に抜けましたが、もう少し大潟村の中心まで行けばよかったです。

途中、北の橋という所で写真を撮ったが、この道は、ポプラと松の防風林があって干拓地が殆ど見えない上、数週間前の台風でポプラが根こそぎ倒れているのを、あちこちで見かけました。

                                     



    



八郎潟干拓地(大潟村) 






   台風で倒れたポプラ

                              

 54号の新生大橋をわたり、再び国道7号に入るとすぐに道の駅「ことおか」です。やはり、まだ新米は売っていませんでした。青森が本場ですがにんにくの漬物やらを買い、五城目八郎潟ICから秋田自動車道に乗り、協和ICで降り、341号唐松神社に向かいました。

この神社は、三韓征伐に神功皇后に従っていった物部氏皇后の御腹帯を拝受して創建したといわれ、神社内にある唐松山天日宮は物部氏祖神の饒速日命が鳥海山に天下って唐松岳に日の宮が造られ、佐竹時代にここに移されたと言います。物部氏についての話は日本全国にあり、弥生時代以降の渡来民が日本海側のあらゆる地方に来たということを示しているのでしょう。この神社は「女一代守神」ということになっており、これも佐竹義処の娘が難産で苦しんだのをここに祈願して無事、男子を出産したことから指定されたということです。

神功皇后の御腹帯とも結びついているのでしょう。

佐竹時代に植えられた樹齢300年の杉並木の奥に社殿があり、社務所の東の池に唐松山天日宮があります。

   

         唐松神社(左の杉の間が参道)                            唐松山天日宮

 

               参道の奥、鳥居よりも下がった所が社――珍しい配置です)

 この辺に地酒でも売る店があるだろうと町を走っていくと、ジャスコと酒屋が隣接してあり、大潟村の「あきたこまち」の新米も地酒も買うことができました。皆満足して協和ICから

高速にのりましたが、天気は次第に悪くなり、予定より少し早いので、錦秋湖SAにある温泉に入ろうということになり、ここで、一休みして秋田道、東北道、磐越道、常磐道と得意の

「鹿島家走り」で飛ばし、約4時間で日立南ICに着きました。

(この日 664km)

 

東北の神

 東北地方は、稲作が困難で、弥生時代の稲作もまだら模様に点在するのみであったようです。したがって、弥生時代という緩衝時代が無く、縄文人と大和の勢力が直接、接触してその勢力に組み込まれていったのです。

したがって、早い時代から大和の勢力と接触していた南東北や日本海側と違い青森、岩手などの神社は、かなり遅い時期に造られ、藩主の庇護を受けて権威付けがなされています。

しかし、一般人の信仰には、東北が古代から馬の産地として知られているように、馬を祭った神社、祭り、風習に関するものが各地にあります。岩手では「ちゃぐちゃぐ馬っこ」で有名な滝沢村の駒形神社は1979年に本来の名前である「蒼前神社」に復称したそうです。ものの本に寄れば、「蒼前」は神の名前で、「宗善」「相膳」「相染」などという名で各地に祭られているといいます。この神の名は、神道や仏教の神ではなく、北方系(渤海など)の馬の神の名前ではないかと言われています。

秋田地方にも、能代に「相染神社」があり、秋田の土崎港にも「相染」の地名があります。

 「おしらさま」も馬、蚕の神でもあり、曲がり屋で馬と一緒に暮らした東北の人達の気持ちが良く現れていると思いました。

このことは、自分の故郷である那珂川から南で「水神さま」が祭られているのと同じ様なものでしょう。我が家でも堤防に上に水神様の祠があり、祖父が季節季節に注連縄を張り、お供え物などをしていたのを思い出します。霞ヶ浦や北浦などでも、湖を向いて各所に水神宮があります。