みちのくの旅(その5)(北東北をめぐるーその1)遠野へ

 この旅行は平成16年の秋ですが、始めての北東北で深い感銘を受けました。遠野の風景や縄文時代のイメージなどが入り混じって、北海道とも、関東とも違う印象を受けたのです。特に、3000年以上前の三内丸山、亀ヶ岡などの縄文遺跡は、他ではあまり見られないものでした。

平均気温が今より高かったとは言え、冬は寒く大変だったろうと思ったものですが、色々な本を読んだり、最近、女性探検家が一人で南極点まで歩いたなどという放送を見たりすると、秋に食料が十分入手できれば冬の生活もむしろ楽だったのではないかと思われてきました。

 女性探検家は100kgの荷物をそりで引っ張っていったと言うのですが、これは、雪や氷のない南の地方では不可能でしょう。

三内丸山の巨大建造物も冬に建てれば案外容易であったかもしれません。芭蕉が蚤や蚊に攻められて大変だったという夏よりも良いかもしれません。

 今回の旅は、娘の休みに引っ掛けたもので、日数が限られたため、駆け足のところが多く、それも残念でしたが、いずれこの地方は、車で一周する予定です。

           

                今回のルート

(第一日 04−9/23)

 今日は良い天気で、朝、6:30前に家を出て、日立南ICから、常磐道、磐越道、東北道と一気に走り、水沢ICで降りる。田の中を抜け、270号線を少し北上すると胆沢城址の看板があり、跡地が公園風に整備されている。9世紀の初め、坂上田村麻呂アテルイを破り、この地の拠点として築いた城です。

現在はこの地方は、田畑が広がっているが、これは後世に行われた大規模な治水事業の結果であり、9世紀初めには原野と川が広がっていたのでしょう。とはいえ、かなりの大軍を動かすことの出来る地形であったと思われます。

5−6世紀ごろからこの地方に南の人間が入ってきたが、北の民はその文化を吸収し、自分達の古来の文化とともにその勢力を保ってきたのでしょう。

その後、大和の勢力が北進し、何回かの衝突の後に、アテルイとの交戦となり、坂上田村麻呂がこれを降伏させ、この地を手に入れ、アテルイは都に送られ切られたという。

そして、源義家の前9年、後3年の役による安倍氏の滅亡源頼朝の義経討伐軍による奥州藤原氏の滅亡で東北の地方文化は、中央に吸収されてしまいました。

                  

                         周辺は田圃とりんご畑

 ここから、国道4号で水沢市内に入り、陸中一宮の駒形神社へ行く。ここは、馬の産地としての東北各地の駒形神社の中心で、奥宮秋田の駒形山にあるとのこと。

東北の馬は、北周りで日本にもたらされたとも言われ、南からの馬よりも大型であり、続縄文の時代からのものとも言われています。馬にまつわる神事やお祭りも多く、駒形神社以前から蒼前神社などとして祭られており、蝦夷の時代からのものと考えられます。そして、茨城辺りまで、道祖神といえば、馬力神、そして馬頭観音です。

  
            駒形神社参道                       駒形神社

 ここ水沢市は、後藤新平高野長英が出た所でもあります。そして南部鉄器の産地でもあります。当初の予定は南部鉄器資料館から397号―107号と抜けて遠野に入る予定でしたが、盛街道(県道8号)を通って途中、五輪峠を通ろうということにしました。

五輪峠には江戸時代に作られた五輪の塔があり、傍に宮沢賢治の詩文の碑がありました。山道には拾う人もない栗がたくさん落ちています。

       五輪峠              五輪の塔と宮沢賢治の碑文

           五輪峠と名付けしは、地輪水輪また火風

              巌のむらと雪の松  峠五つの故ならず

                ひかりうずまく黒の雲 ほそぼそめぐる風のみち

                    苔むす塔のかなたにて 大野青々みぞれしぬ           

 ここから107号線に入り、少し逆行すると54mの不動岩がそそり立っています。この下に巌龍神社がありますが、これは明治の廃仏毀釈で寺が神社に変わったものです。目の前を川が流れ、一面の秋の稲田で、まさに日本の原風景といえる景色です。

             

                        不動岩と巌龍神社

 107号線を進み283号線に入って、396号線との合流点を逆行すると南部曲屋千葉家があります。

ここは、一般の曲がり屋と違い、大地主の家であり作男を十数人も同居させていたという巨大なもので、今でも人が住んでいますが維持が大変でしょう。


  


     大工小屋

 中央   馬小屋(20頭いたという)

 右奥   母屋(15人の作男もいた)







       南部曲がり屋千葉家 

 さらに、少し遡ると続石があります。山道を登っていくと、巨大な石が積み重なっており、縄文時代の遺跡とか、弁慶が持ち上げて重ねたとかと言われています。この辺は義経の逃避行伝説の八戸への路となっています。

                

                        続石(左の石には乗っていない)

 ここで昼も廻ったので、283号に戻り、道の駅「遠野風の里」により「ひっつみ定食なるものを食べた。ひっつみとはうどん粉をこねて手で引きちぎって汁に入れたもの。結構、大きな道の駅です。

さて、時間もあることだし、明日行く予定だった早池峰神社に行こうということになりました。この神社もまたややこしい経緯があります。

早池峰神社の奥宮は、早池峰山の山頂にあり、大同元年(806年――この年に建立されたという寺は各地にあります)に猟師の藤蔵というものが十一面観音像に出会って感銘し、後に山頂に奥宮を建て、50年ほど後に慈覚大師円仁が現在の早池峰神社の所に妙泉寺をたて、奥宮を神宮としたと言います。明治維新の廃仏毀釈で早池峰神社と改名したのです。

奥宮へ向かう四方の登山口には、それぞれの寺院が早池峰神社となって存在しています。今日、参拝に行くのは、元妙泉寺の早池峰神社です。国道396号に少し入ったところから、川井住田大規模林道を走り、付馬牛(つきもうし)というところを過ぎて、神遣峠を抜けしばらく行くと、早池峰神社に到着です。この辺の地名は、いかにも蝦夷系の地名と思われませんか?

こちらから行くと、前薬師という山のため早池峰山は隠れて見えません。寺の神門は、立派なもので昔の仁王門です。仁王像は、明治の初めに、別の寺の払い下げられ、今は神像が入っています。それもなんとも不思議なものです。社前の説明書によると「本社早池峰神社」とあり、遠野三山(早池峰、石神、六角牛という3つの山で、女神3姉妹が住んでいるという)の山霊を祭ると有ります。

  

       早池峰神社神門                     本殿(思ったより小さなものです)

            

                                       神門の随神像

いささか、寂れた感じで社務所のは誰も居らず参拝して帰りは、あたらしく整備された別の広域農道から県道160号に出て、遠野ふるさと村の前を通り、戻ってきました。

  

       広域農道の鉄橋(田舎には不似合い)       遠野ふるさと村(入り口で失礼)

ここは、時間がないので、入り口のみを見て国道340号との交差点の遠野伝承園に戻りました。

伝承園は、柳田国男「遠野物語」の元になる遠野の民話を集めた佐々木喜善記念館、工芸館おしら(御蚕神)堂、曲がり屋など遠野の民家、文物などが残されており、近くには、早池峰神社への古参道の入り口の朽ちた鳥居、金比羅様の石碑などが残っている。

 

        



  伝承園入り口         








           

    
     
おしら(御蚕神)堂 奥の部屋に桑の木の柱,その奥に沢山のおしら様)

                

                         旧参道口の古びた鳥居?

この地方には、蘇民祭という裸祭りがあり、今年の奥州市黒石寺蘇民祭は、そのポスターに出た胸毛の男の姿が問題だなどと騒がれました。こんなことを書いているうちに私がしばらくいた稲沢市国府宮神社裸祭りを思い出しました。裸の男がキモイので駅にポスターを出させないなどとJRが言って問題となったようですが、国府宮の裸祭りでは、何年かに一度は、死人が出る騒ぎです。

     

 






ご参考(昔はふんどしもしなかったとか!!)


        

                              そこで21年は!(全く迫力なし)

 340号を少し釜石方向に行くと、佐々木喜善の生家が有り、近くにデンデラ野という所があるとマップに有りましたが、時間もないので行きませんでした。

江戸時代、還暦を過ぎた老人は家を出てここで共同生活を送ったとか。そう聞くと楢山節考の姥捨て山のような感じですが、どうもそうではないようです。要するに、60歳を過ぎると死んだことにして人別帳からはずしてしまう。これによって、賦役や人頭税などを払わなくて済むという意味も有ったらしいのです。風の里と言う位ですから、やませが吹く年には、必ず凶作となり、飢餓が襲ってくる、しかし農業には人手がかかる。そのような中で考え出された智慧であったのかも知れません。

 340号を越えてすこし県道160号を行くと、常堅寺があり、そこにカッパ淵があります。常堅寺は、平安期の安倍貞任の弟の家任の開基とも言われ、安倍屋敷の跡という場所がある。ここの狛犬は頭の上が凹んでいて、河童狛犬とも言われています。
また、ここの仁王像は、早池峰神社の山門にあったものです。

遠野物語によると、河童が馬をふちに引きずり込もうとしたが、馬の方が強く厩まで引っ張って行かれてしまい、隠れているところを見つかって、これから悪さをしないと謝って許されたとか。

  

            常堅寺仁王門                    河童狛犬

                

                            かっぱ淵

遠野市内に戻り、五百羅漢に行きます。この山に地に入る手前に卯子酉さまという小さな祠があり、縁結びの神様と言われています。縁結びを願う人達が、おみくじを枝に結ぶようにと願い、紅白の布をたくさん結び付けてありました。

                     

                               卯子酉さま

近くに車を止め、山道を行くと森の木立の中に五百羅漢があります。天明の大飢饉でなくなった人達を供養するため、大慈寺の義山和尚が岩に刻んだものですが、線刻に近いため、岩が苔むしてはっきりと見えないものも多く有ります。

東北では、飢饉の犠牲者を弔う場所が各所にあり、江戸中期の寒冷化の影響が大きかったことが想像されます。

  

          五百羅漢への道                 羅漢の一例(これは良く見える)

 宿の徳田旅館はこの近くで、部屋数も少なく家族的な所でした。温泉では有りませんが、一晩中風呂に入れるのも良く、料理も地場のものが多く、価格もまあまあでした。

 遠野は、近くは比較的低い山に囲まれ、小川と水田という懐かしい風景の所です。常陸や美濃の田舎と違う所は、柿の木と竹が少ないことでしょう。代わりに栗が多く、縄文時代以来の栗の里なのでしょうか。

(この日 509km)

 

(第二日 9/24日)

 さて、昨夜は早く寝てしまったので、朝風呂に入り、女房と近くの鍋倉城址に出かけました。ここは中世には、阿曾沼氏の支配下にあったが、秀吉の時代に南部氏の支配に入り、江戸時代には遠野南部氏250年の居城となった所です。

山道を登っていくと、三の丸跡が整備され、ふるさと創生基金で作られたという二層の展望台がありましたが、早すぎて開いていませんでした。城は、典型的な山城で、遠野の市街、遠くの薬師岳などが一望に見えます。

                 

                         城跡から見た遠野市街

 帰って食事を済まし、今日は、北側の早池峰神社(元新山大権現)に行って見ようということになりました。

340号の江繋から県道25号に入ると道が狭くなり、川沿いに通っていくと、林の間に早池峰山を垣間見ながら進み、小田越という早池峰産の登山口に着きました。ここは、夏はマイカー規制では入れません。

  

        早池峰山への道                      小田越の登山口

ここから少し下ると、元新山大権現の早池峰神社です。

   

         早池峰山神社(右奥は宝剣)             早池峰神社神門 

                

                            早池峰神社拝殿

こちらの方が立派でした。

さらに進んで、早池峰ダムの横を通り、紫波ICから十和田方面に向かいますが、ここで一区切りとします。

 

「おしらさま伝説」

 遠野物語の69話に次のような一話があります。

 昔あるところに貧しき百姓あり。妻ななくて美しき娘と一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩に行きて寝ね、つひには馬と夫婦になれり。
ある夜父はこのことを知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のをらより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首にすがりて泣きゐたりしを、父はこれをにくみて斧をもちて後ろより馬の切り落とせしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇れり。オシラサマといふはこの時よりなりたる神なり。

 また、この話は、長者の一人姫で、親が馬を憎んで皮を剥いだ。娘が嘆いているとその皮が娘を来るんで連れ去った。
親が悲しんでいると夢枕に姫が立ち、「3月16日の夜に土間の臼の中に馬の頭をした白い虫が湧く。その虫は蚕と言い、桑の葉で飼えば、上等の糸が取れるのでこれを売って暮らして欲しいといった。

これが蚕の始まりで、馬と姫は馬頭、姫頭の2体のおしら神になったというものもあるようです。

  おしら様は、桑の枝で作られ、各家に祭られ、馬、蚕、農業、地方によっては目(特に青森方面)の神ということになって神道や仏教と異なる独特の信仰として今日に至っています。

               

                おしら堂のおしら様の例(左―馬頭、右―姫頭)