みちのくの旅(次第に北東北へーーその2)

 鳴子では、雨が断続的に降っています。女房と次男夫婦は、鳴子峡を見に行くと言い、娘と小生は当然、温泉です。

待ち合わせの時間を決め、出発。鳴子には色々な泉質の温泉がありますが、早稲田大学が地質調査に来て掘ったら湧出したという早稲田桟敷湯というのに入ってみました。「酸性含明礬、緑礬−芒硝硫化硫黄泉」と言うやたらと長い名前の泉質です。

 温泉を出て駐車場に行くと、女房達が帰ってきて、結局、雨で鳴子峡には奥まで入れなかったとのことでした。駐車場の向かいの土手から温泉の湯気が噴出しており、いかにも湯量が豊富であるという感じで、宣伝によると、日本にある11種の泉質の湯の9種類がここにあるとの事。冬など湯治をかねてゆっくり来て見たい気がします。

3時を過ぎて、鬼首温泉に向かいます。宿に行く前に、間欠泉弁天に行きました。ここには、谷川に沿って、弁天、雲竜という2本の間欠泉があり、10分くらいの間隔で噴湯します。また、大きな混浴の露天風呂がありますがさすがに誰も入っていません。

               

        間欠泉弁天(**様ーーー              雲竜(雨が降ってきました)

宿の国民宿舎鬼頭ロッジに着いた頃には、雨も上がったので近くの吹上げ地獄谷に行って見ました。ここは、谷川の横が散歩道になっており、そこから高温の湯が出ている所が何箇所もあります。中には湯量も多く、露天風呂に出来そうな所もあります。

観光客が温泉卵を作ったりするそうです。

  

      地獄谷の遊歩道                      崖からお湯が湧き出ています

 宿は普通の国民宿舎で、山歩きの人達が良く利用するようです。

(この日 161km)

 

第三日 9/25

 朝、5時頃、激しい雨で目が覚めました。鬼首山麓高原道路という立派な名前の道路に入りましたが、補修がされておらず、半分ダート状態。途中、荒湯温泉があり、谷あいから硫黄の臭いとともに蒸気が噴出しています。

ここを過ぎ、県道249号から鎌内林道を通りますが、ここは、ネットで調べて、10km以上のダート道だということでしたが、確かに雨も激しく、厳しい道でした。ここから国道398号線を北上し花山峠を抜けると、秋田県です。

栗駒に入り子安峡についても、まだ雨で、大噴湯など見に行こうと傘を差して滑りやすい階段を川辺に下りていくと、遊歩道があり、崖から湯が出ていたりして先のほうに噴湯が見えるのですが谷川が遊歩道の上まで増水していて、先に進めません。写真も取れませんでした。

昨日からの雨で、谷川の増水は大変なものです。

 

 








   天気の良い時の子安峡
    (今日はこの遊歩道の上まで増水)









 さて、当初の予定は、ここを散策して昼食、入湯、栗駒道路から国道342号線で一関方面に抜けることになっていましたが、

この天気では面白くもなさそうなので、国道398号線を少し北上し、県道51号から県道310号に入ります。

しばらく行くと泥湯温泉です。ここは、まさに、噴気孔の中にある温泉といった風情で、小生と娘はここが良いと思ったのですが、女房や次男夫婦は、秋の宮温泉まで行くというので、硫黄の臭いをかぎながら通過です。

               

                  泥湯温泉の入り口 (噴気で先が見えない)

 ここから少し進むと、川原毛地獄です。ここは、恐山、立山、と並び日本三大霊地だそうです。なぜ、この三つが並べられるのか良く分かりませんがーーー 昔は女人禁制の修験道の霊地だったとのこと。明治は硫黄の採掘なども行われたようです。

硫黄の噴気で周りは木が一本もない裸山。河原毛というのも尤もです。近くに大湯滝があり、滝つぼが絶好の露天風呂になるらしいが生憎の雨で少し周辺を散策して、先に進みました。

     

  





      河原毛地獄1      










  

                    
                           河原毛地獄2

 さらに進むと、国道108号に出て、少し南下すると秋の宮温泉です。この温泉は、秋田で最古の温泉と言われています。

ここで、秋の宮山荘という、リゾート施設に行き、昼食、入湯。やはり、温泉は泥湯のような原始的なところが良い。昼食後、次男夫婦と別れ鳴子に出て、48号伝を下り、457号線から大和ICで東北道に乗って帰りました。

今回は雨に祟られた旅でした

(この日 442km)

 

栗駒国定公園

 この辺りは、山形、秋田、宮城、岩手4県が接近し、栗駒山の西側には多くの温泉があります。今回廻ったルートは最上川、北上川の水系が日本海、太平洋に流れ、78世紀頃は、大和の勢力が東北支配を目指した最前線の辺りでしょう。

そして、坂上田村麻呂アテルイを降伏させ、胆沢城を築き、安倍、藤原一関周辺に勢力を築いた頃には、日本海側への道は、栗駒山の横を通り、鳴子や最上、新庄、そして鶴岡や酒田と繋がっていたのでしょう。

義経伝説義経が追われて平泉に逃げたルートが、日本海側からこのルートだと言われています。新庄や最上、鳴子にも、この伝説の跡が色々とあるようです。

これより北に行くと、明らかにアイヌ系と思われる地名が増えてきます。

この辺の温泉をめぐって歩くだけでも、続けていったも半年以上かかるのではないでしょうか。