みちのくの旅(次第に北東北へーーその1)

 新潟から村上、湯殿山、酒田、鳥海山、象潟などの日本海側、平から原ノ町、相馬、仙台などの太平洋側は以前に行ったことがあるのですが、記録も写真もあまり残っていません。この辺は、別途廻ることにしています。

旅も、次第に北東北になって来ました。こちらの風土は、また、違ったものがあります。

北東北という名前で観光案内などが出されていますが、歴史的に見た北東北について考えて見ました。



古代東北への進出


  主要神社

    1
都都古別神社
    2.伊佐須美神社
    3.西奈彌(せなみ)羽黒神社
    4.塩釜神社
    5.鳥海山大物忌神社
    6.駒形神社


  主要密教系寺院

    1.瑞巌寺
    2.立石寺
    3.出羽三山
    
4. 中尊寺、毛越寺





                                      



 弥生人が稲作とともに北上し、安定的に稲作の文化を発展させ、古墳文化に至ったラインが、勿来、白河、念珠関のラインで5−6世紀の頃と思われます。

その後、大和朝廷が東日本を統一し、来たにも勢力を伸ばしてきました。7世紀の半ばには、阿部比羅夫が水軍を率いて北海道まで行ったという記録もあります。(これは、新羅との戦いに備える航海訓練という説もあります)そして、663年白村江に破れると、本格的に国内統一に乗り出し、8世紀初めには、陸奥の国に多賀城を築き、出羽の柵を秋田に移し、次第に北上していきます。

そして、9世紀の初め、坂上田村麻呂が蝦夷のアテルイを降伏させ、その本拠地の北上周辺を手中に収め、胆沢城を築き、この段階で、南東北までの支配権を確立しました。

 その後は、この地方を支配した、阿部氏、藤原氏が中央の意向に従わないということで、源義家、頼朝と平安から鎌倉時代の初めまでかかって、完全な中央支配が確立しました。

これから見ると、北東北とは、盛岡と秋田を結んだ線から北の方を指すといってもよいと思います。

したがって、今回の米沢を基点に、天童、鳴子、鬼頭、子安峡などを廻った記録は北東北とは言えないところがありますが、一応、北への入り口ということで書いて見たいと思います。

女房や娘と、また、途中からは次男夫婦と廻ったので、基本的には観光旅行ですが雨にたたられてしまいました。

 

第一日(05−9/23)

 いつもの磐越道に向かい、桧原湖から米沢に行こうという計画でしたが、手前の猪苗代磐梯高原ICで降り、土津(はにつ)神社に立ち寄りました。

ここは、初代藩主保科正之を祭り、会津藩時代は東北の東照宮といわれるほどの神社であったが、戊辰戦争で焼かれてしまったという。

正行は深く神道に帰依し、この地(すぐ近くですが、参道が長く時間もなかったので行けませんでした)にある磐椅(いわはし)神社に参拝した時に、この地が気に入り、その遺言でこの地に葬られたとのことです。死んでも神に仕えるということから、この神社は、磐椅神社の末社になっています。

 磐梯山は、昔は、山容が鋭く、磐のはしごを登るようだということからいわはし山と呼ばれ、磐椅神社は、延喜式にもある磐梯山を祭った神社です。今の山容は明治21年の大噴火ですっかり形が変わってしまったとのことです。

幕府は、葬式は仏式と定めていたのを、交渉して神式にしたと言われています。水戸光圀が儒教の礼によって葬られているのと似た話です。もっとも、徳川家康東照大権現という神号ですから、神、仏、儒が一体になっていてもおかしくはないでしょう。

    

          土津神社                         磐椅神社(参考まで)

 ここから、北上し県道2号線に入り、白布を経て米沢に10時半頃に到着。山形城史苑に駐車して、松岬神社上杉神社などを廻りました。会津を過ぎて山形以北の北東北に入ると、神社はありますが原始宗教、神仏混交の流れを汲む山岳宗教か土地の藩主や坂上田村麻呂や馬を祭る駒形神社などとなって、最初から大和系の祭神を祭った神社は殆どありません。

この辺から北は、古墳時代以前は蝦夷地であり、大和以前の神が根付く弥生の文化は浸透していなかったのでしょう。

米沢での物産館で土産、昼飯、そして法音寺の上杉家廟所は、大学の同期との旅行の所で書いたので省略します。

今回は、ここから南ではなく、最上川に沿って北上します。その途中で、川西ダリア園によりました。

ここは、ポンポンダリアみたいなものから大輪の菊のように一本仕立てのダリアまで650種2万本のダリアがあるところです。ちょうど満開で、連休、大勢の人が来ていました。展示かも行われていて自慢のダリアをおばさんが苦労話など話してくれたりしています。

 

   






   川西ダリア園        











                              

                        様々な種類がある

 2時過ぎにここを出て、国道287号線を最上川沿いに北上。川は、断崖が深く、景色も良く見えないので、途中から旧道に入りました。何時も思うのですが、川沿いの道は旧道がある時は、そちらを走るべしと言うことです。最初から旧道にすべきでした。 

 しばらく進んで、287号に戻り、朝日町のりんご温泉に立ち寄りました。ここは、岡の上にあり、温泉に村の産物のりんごを浮かべています。露天風呂はさらに上にあり、服を着て階段を上がります。

              

                  りんご温泉の露天風呂からの最上川方面

 ここから、さらに北上し、少し迂回して、112号線チェリーランド道の駅寒河江により、娘が友達への土産など買って、県道を進むと天童温泉に着きます。この温泉は明治になって出来たといい、ネットで調べていちらくという宿を予約したが、出発の数日前にテレビで放送しており、概要を知ることが出来ました。ここで、次男夫婦と合流しました。夕食など、テレビの放映と同じ。

             

                   テレビでやっていた宿いちらく

この日 334km

 

(第二日 9/24)

 食事が7:30からというので、女房と車で天童公園に行って見ました。ここ鶴舞山天童氏の城山で上の方は展望台と人間将棋をやる舞台があります。公園の花壇はなぜか蕎麦など作っています。帰りに天童駅に寄ったがしゃれた駅でした。

 

            



    人間将棋盤  



 
  
                                        しゃれた天童駅

 8:30に宿を出て山寺に向かいます。山寺は宝珠山立石寺と言い、860年に天台宗慈覚大師円仁が開いたもの。円仁は、東北の弘法大師とでも言うべき人で、中尊寺、恐山、瑞巌寺などの寺院を開いたといいます。特に山寺に力をいれ、修行の道場として、比叡山延暦寺から持ってきた千年の宝灯は今日まで消えることなくともされていると言われています。

国分寺などの建立の詔勅が出たのが741年、最澄が延暦寺の前身の一乗止観院を建てたのが788年、坂上田村麻呂がアテルイを降伏させたのが802年、山寺の建立が860年と、仏教が次第に広まっていったことを示しています。 

 延暦寺でも同じような説明を聞かされたが、実は、こちらは信長の焼き打ちで法灯が途絶えたのをここから持ち帰って移したものだとか。

春日山の鹿が鹿島神宮からもって行ったという話しと似たような話です。

千段の石段を登っていくと山の岸壁に色々な堂宇が配置され、舞台の裏手からは一般時の入れない修験道へと続いています。

           

            立石寺にて                                   この岩孔で修行したと言う

                     
                         
立石寺の本殿他              





芭蕉像
芭蕉句碑 

  しずかさや いわにしみいる せみのこえ

 ニイニイゼミという話ですが本当でしょうか?







 山寺から戻って、国道13号線尾花沢に向かいます。途中、山形空港の横を過ぎ、道の駅むらやまに立ち寄りました。

周辺の市町村が共同でパンフレットなどつくり、観光地、温泉、蕎麦どころなどの宣伝をしています。まだ昼飯には少し早いので、このまま進み、尾花沢の手前で尾花沢蕎麦街道と宣伝している旧道に入り、福原屋という蕎麦屋で蕎麦を食い、ここから、芭蕉が山越えをしたという県道28号を進みます。

途中、奥の細道の最大の難所という山刀伐峠の付近は、奥の細道の旧道が整備されて歩けるようになっていますが、こちらは車で通過です。芭蕉が通る時、山賊が出るというので、後で出てくる封人の家の当主が護衛をつけたといいます。

             

                山刀伐峠の東屋(中央の所から旧道に下る)

 峠を過ぎると、赤倉温泉で、さらに進むと陸羽東線と国道47号にぶつかります。ここから谷川沿いに進むと、奥の細道にある関守の家(封人の家)があります。ここは、国境の庄屋の家で、80坪もある大きな家です。ここを見て尿前の関跡を過ぎ、鳴子にはいる頃は断続的な雨模様でした。曇っていたのが雨に変わりました。

 




        封人の家

   芭蕉の句

    蚤しらみ 馬が尿する 枕もと

 








尿前の関の近くの中山峠は、最上川水系と北上川水系の分水嶺です。西と東に流れる二つの大河を境に、蝦夷との間で様々なことがあったのでしょう。この辺が北東北の最南端と言っても良いかもしれません。

 鳴子は宮城県で、ここから先は、(その2)とします。