みちのくの旅(米沢から那須へー大学の友人と)

 入学時から、囲碁部などで一緒になり、学んだコースは違いましたが卒業後、今日まで一緒の友人が7人。今回(06年)は、6人で米沢から白布温泉、桧原湖、喜多方、柳津、大内宿、那須、袋田、水戸のルートを旅行しました。小生のみが茨城で、他の連中は東京方面から来るので、レンタカーと小生の車の2台で回りました。

 

第一日(06年07/26)

落ち合う場所は、上杉家の城下町米沢、ここから南に下ります。米沢までは、一人旅です。ここまでの途中の日立から郡山、福島と進む道筋の幾つかの名所も合わせて紹介しましょう。これらは、別の時に行った所です。

1. 勿来の関白水阿弥陀堂

弥生人が関東まで来たのは、おそらく、紀元前であろうと思われ、しばらくしえ、常陸の地はその支配に入ったと思われます。そして、それから数世紀して、次の渡来人の勢力が北上し、これらの部族を併合して古墳時代になったと思われます。

日立の大甕倭文神社は、この地にいた甕星香香背男という悪神を武葉鎚命が滅ぼし、その魂を押し込めるために建てられたと言われ、この種の話は、関東の至る所にあり、当時の状況を示しています。

 勿来の関5世紀ごろつくられたとも言われているようで、おそらく、その頃には、関東の勢力がいわき付近で北の蝦夷?と接していたのでしょう。8世紀には石城(いわき)に駅家が作られたようで、すでにこの頃には、大和の勢力は仙台平野に達し、坂上田村麻呂の時代(9世紀初頭)には、胆沢付近まで大和の勢力が広がりました。

地元に勢力を築いた安倍氏の反乱?を源義家が押さえた11世紀中頃、そして12世紀は、奥州藤原氏の時代となります。

 奥州藤原氏の最前線は、このいわき辺りで、ここの支配者の岩城則道の妻が藤原清衡の娘でこの白水阿弥陀堂が建てられたのが1160年だということです。

ちなみに、という地名、白水という地名は、平泉からきているそうですが本当かな?

地理的に言えば、勿来の関は茨城と福島の県境、白水阿弥陀堂はそれより北の夏井川の平野の山側にあります。

ここから北は仙台平野まで太平洋側に大きな平地はなく、地政学的には重要な地点であったのでしょう。

 

   勿来の関跡と源義家像 

義家の歌

吹く風を
  なこその関と
    思えども
      道もせに散る
         山桜かな







          

                       白水阿弥陀堂

2. 福島の桜山もじずり石

 太平洋側を仙台平野まで陸路で行こうとすると、多くの河川を横切る必要があります。昔は、川沿いに内陸に進み、郡山から福島方面に抜けた方が楽だったと思われます。

これが今の磐越東線で、高速もここを通って郡山東北道と交差します。

 ここから、福島に進み、再び、川沿いに進む道が米沢街道で、米沢藩はこの道を参勤交代で通ったのですが、明治になって、奥羽本線はこの街道沿いに進みますが、国道13号線は峠越えの新しい道になりました。

 郡山に行く途中にも、三春の滝桜など多くの名所がありますが、高速を進み福島市に行くと、阿武隈川の対岸に、最近有名になった花見山公園があります。ここは個人が所有する場所ですが一般に開放され、花見時には大勢の花見客で賑います。

ここから、阿武隈川に沿って、115号線に出て、信夫という地名があり、山側に入ると文知摺観音があります。その昔、この地の長者の娘虎女が都に去った源融をしのんでこの石を見るとその姿が見えたというもじずり石があります。もじずりとは石の上で色染めをする染色の技法だとか。しかし、後に芭蕉が訪れた頃はすでにそれはなくなっていました。

 

  




  花見山公園から見た
   福島と山形方面 
   













    文知摺観音の文知摺石

河原左大臣源融の歌 
  みちのくの
    しのぶもじずり
       たれゆえに、
         乱れ染めにし
            われならなくに

芭蕉の句  
   早苗採る 手元や昔 しのぶ摺り



 白河の関は、郡山から南にあり、郡山から北は、5世紀前後は、いわきと同じく「関外の地」であったのでしょう。しかし、早い時期に大和の版図に組み入れられたと思われます。 

3. 福島から米沢そして白布温泉へ

 さて、思い出に浸りつつ、福島から13号線で合流地の米沢に向かいます。東栗子トンネルを抜けた所に、板谷大橋があり、ここから旧米沢街道と並行して走る奥羽本線いたや駅に行くことができます。時間が少しあるので、脇道にそれて行って見ました。この辺もがけ崩れなどで道路改修中です。明治時代に13号線が別ルートで開通したために、この辺の道路は狭く集落もひなびた感じでした。廃校の体育館などがさびしく残っていました。

また13号線に戻って、10時過ぎに米沢駅に着きました。まだ、時間もあるので、市内の寺町などを車で回ってみましたが駐車する場所が分からず、駅に戻り、しばらく待って東京から来た仲間と合流し、レンタカーと2台で市内に向かいます。

米沢城址は、現在、松が岬公園となっており、周辺一帯が観光地として整備されています。

入り口の上杉城史苑に駐車し、米沢牛丼定食なるものを食って、庸山の像、有名な「なせばなるーー」の碑文を過ぎて上杉庸山を祭った松岬公園から、公園内の上杉神社へ向かいます。

 



上杉庸山像の前で 







                                        なせばなるの碑の前で

  
      
   
上杉神社                        謙信廟所跡(明治以後は上杉家廟所に移る)

 米沢城址は、石高相応の大きさで、天守閣は建てられなかったようです。堀に囲まれたこじんまりした城跡で、正面から一直線に 上杉神社に向かいます。
この神社は明治になってからのもので、城内にあった謙信廟所の遺骸も、上杉家廟所に移されました。

内堀を南側に出ると上杉記念館、物産館などがあります。ここまで来ると心は今夜の飲み会に飛んで、物産館でつまみなど買う事になりました。ここを過ぎると伝国の杜という博物館がありましたが幸い?休館日で、車に戻って出発です。

 国道121号線を西に向かうと法恩寺があり、ここが上杉家廟所となっています。歴代の藩主の廟が並んでいますが、藩の財政も逼迫し、庸山以前はヒノキなど使っていたのが簡素化されたと言う事です。

 

    偶数代藩主廟書(左)      上杉謙信公廟所(中央)      奇数代藩主廟所(右)

  博物館も休みで時間が早いので、家臣の墓がある林泉寺によって見ました。この寺は、越後高田から上杉の移封とともにこの地に移ってきたもので山形大工学部の隣で直江兼続夫妻などの墓があります。

               

                            林泉寺

 この後、県道2号線で白布温泉へと向かいます。米沢から会津への道は、この県道2号、旧米沢街道、米沢街道(121号線)などがあり、冬場の通行は困難でしたが、今は、121号線のバイパスが出来で、約4000mの大峠トンネルのお陰で冬でも車で通れるようになりました。

県道2号線も白布温泉までの道は、拡幅され、カーブも少ない道です。白布には、2時半過ぎに着いてしまい、まだ時間があるので少し先の天元台に行こうということになりました。そもそも、一人を除いて、皆、有段者(7段から3段、小生も一応、日本棋院から初段の認定はもらっている)で、天元と聞いたら行って見たいという単純な発想です。

 途中まで、ケーブルでのぼり、さらにその上までケーブルもあるのですが、曇って霧がかかってきたので止めて、記念撮影をして戻りました。夏休みで、子供連れもすこし来ていました。

 白布温泉は、元は奥羽三高湯の一つで秘湯といわれ、茅葺の東屋、中屋、西屋の3軒の旅館があったのですが、平成12年に、東屋と中屋が火災で焼失し、中屋は廃業してしまい、古い宿は、我々が泊まる西屋のみになってしまいました。

                  

                             天元台にて

宿に着いたのは5時近くで、早速、囲碁名人戦が行われたとか言う離れを見に行く人、温泉に入る人と二手に別れます。

温泉は、滝の湯と称し、上の湯口から源泉が勢い良く出ている。

夜は、元気のいい仲子(中古?)の元気のいい女の人の給仕で飯を食い、山形では、「有難う」を「おしょうしな」と言うんだなどと言うことを、教わって酒を飲み楽しく就寝。

 

     






中屋跡の湯口(右後ろは神社の鳥居)      







          

                  西屋(宿泊は奥の建物)

 

第二日(7/27)

 写真を撮ったりしているうちに出発は、8時半過ぎになってしまいました。天元台の入り口から先の県道2号線は結構、起伏とカーブが続き、車に弱い友人の一人が少し気持ちが悪くなりました。桧原湖畔についた頃は、天気もそこそこよくなりましたが、山には雲がかかり、磐梯山は全く見えません。天気が良いと写真のように見えるそうですが。

             

                    雲が無い時の桧原湖からの磐梯山

足の弱い友人もいるので五色沼方面はやめにして狭い西岸の道を進み、道の駅裏磐梯に着きます。
ここをショートカットする峠道もあるのですが、今は殆ど廃道に近く、オートバイも通れないほどだとか。

                   

ここから、国道459号線を西に進むと喜多方の町です。この地域一帯は、会津の北方で北方と呼ばれていたのが、明治の合併で北方となり、さらに平成の合併で周辺町村と一帯になったものです。

町は、織物などが盛んだったこともあり、土蔵つくりの家が多く残っており、最近では喜多方ラーメンでも有名です。

 古い町で道に迷い、ようやく、蔵の里に着き前の喜多方プラザ文化センターに駐車して、蔵の里を見る。観光地図をもらって、甲斐本家蔵屋敷を見に行きました。ここは、織物と醸造業で材をなした人の屋敷で、全体が土蔵造りとなっている。

          

            甲斐本家(裏から入る)   庭から見た土蔵つくりの客間

 この後、小原酒造(庄助さんとは関係ないだろう?)に行く予定であったが、少し時間がかかったので、県道21、22号線を下り会津板下から柳津の福満虚空蔵尊、会津高田の伊佐須美神社を経て、大内宿に向かいました。(板下から福満虚空蔵尊、伊佐須美神社は、前回、紹介したので省略)

大内宿は、会津から日光に向かう日光街道の宿場町で、観光地として有名ですが、果たして当時も面影が何処まで残っているかは疑問です。もともとの街道筋に多くの古い家屋敷を集めた様なところがあり、どの家でもみやげ物を売っていますが、本陣がどんな形であったのかなど、歴史的な説明は不十分です。

            

            大内宿(大体がこんな感じで奥の方に茅葺の家がある)

 蜂蜜など土産を買って、国道289号から那須甲子道路を通って那須に向かい殺生石の所に出ました。

芭蕉奥の細道に 「石の毒気 いまだほろびず 蜂蝶のたぐい 真砂の色の見えぬほどかさなり死す」とありますが、今では、毒気も衰えてしまったようです。

皆、なんとなく疲れたようで、それでは、傍の鹿の湯に入ることにしました。ここは、硫黄泉で、湯船が48度から41度まで5つあります。さすがに48度に入る人は殆どありません。友人の一人と、46度に下半身を入れるのがやっとでした。

 





殺生石(奥の岩肌が見える所です)


 芭蕉の句

   いしの香や なつ草あかく 露あつし





 一風呂浴びて、山道を下り、御用邸の近くのラフォーレ那須が今夜の宿です。温泉にも入ったことだし、飯の後は酒となり、囲碁と麻雀をやったが皆酔っ払っていて駄目。

 

第三日(7/28)

 宿を出る頃から雨が降り始め、途中激しく降り、第一の目的地の袋田までまっすぐ行ったので、10時過ぎについてしまいました。

小生はいつもの道なので、早くついたが、もう一台は途中で道に迷い、遅れてきましたがその頃、雨も上がりました。

袋田の滝は、いつもより雨のため水量も多く、初めての人には良かったでしょう。昼飯は、峠を越えた所にあるビレッジクラブ大子コースというゴルフ場に行きました。ここの温泉の露天風呂は中々のものです。食堂や露天風呂から見るゴルフコースの向こうには、送電線など一切の人工物がありません。

 

                                         袋田の滝



 
         露天風呂から

   

ここで休んで、水戸に向かいます。水戸では、偕楽園に行きました。偕楽園は春は梅、初夏はつつじ、秋は萩が綺麗ですが、生憎少し、時期はずれで園内を少し歩いて写真を撮り、身と駅の近くで車を返し、東京組と別れました。

             

                     偕楽園にて(千波湖を背景に)

奥羽三高湯

 山形県は全ての市町村から温泉が出る温泉王国。奥羽三高湯とは、蔵王高湯、白布高湯、福島の信夫高湯を言うのだそうです。今でこそ、掘削技術の進歩で茨城県も掘れば温泉が出るということで、温泉と称するところは沢山ありますが、高温の湯が湧出しかけ流しといった本来の温泉は無いといってよいでしょう。温泉好きの小生が旅行するのに東北は良い所です。