西安(骸骨の見すぎ)

 

 中国には、1979年当初より、30回近く行っているが、その間の変化は、誠に激しいものがある。

西安にも、その間、10回近くは行っていると思うが、始めていった時に大雁塔から見た一面の畑は、今はなく、周辺は市街化し、旧市街の外側に環状道路が出来、特に、クリントンが訪れた後は、道路などもきれいになった。

 しかし、始めていった頃は、観光資源も整備されておらず、かえって、生の姿が見られて面白かったと思う。

 西安の町は、第二次大戦時代は、西安事件でも分かるように、国民党と共産党が争った所でもあり、戦後、国共の抗争の中で、台湾からの反攻を恐れた共産党政府がソ連の援助のもとに上海などから工業の中心をここに移動した所でもある。

ホテル(招聘所)もロシア人のために造ったもので、バスタブは熊が入れるほど大きく、トイレも西洋式なのだが、坐ると尻がはまってしまうほど大きい。

西安交通大学など、工業大学もあり、工業団地もあるのだが、毛沢東スターリンの仲違いで、ソ連の援助も無くなり、我々が行った当時は、四人組闘争の終わった頃で、見せてもらった変圧器工場は、珪素鋼板の上に砂が堆積しているようなありさまであった。

「これじゃ問題ではないか」と言うと、「悪いのは、全て四人組である。これから、全てをやり直す」と戦争に負けた当時の日本人みたいな事を言っていた。

 それから、何年か経って、技術提携の話が再燃し、例によって、K君と技術供与の打合せで、西安に出かけた時のことである。

この頃は、彼らは、必ず、観光に一ないし二日を取ってくれている。これ即ち、彼らが日本に来た時に同じ事をしてやる必要があるということである。

この日は、日本語を話せる若い女性が案内してくれた。

基本的には、現在の観光コースに近いルートであるが、おそらく、殆どの人の行ったことのない半波遺跡博物館にまず案内された。

 此処は、6000年以上前の遺跡で、日本の環状集落のように堀で囲まれた集落跡を発掘しそのまま、体育館のように建物で覆ってある。おそらく中国で最も古いと言われる土器も出土している。墓にある人骨などもそのまま残されており、黄河文明の起源の一つとして、重要な遺跡である。

           

                 半波遺跡の骸骨

 そこから、華青池に行き、楊貴妃の入ったという温泉の跡を見たが、こちらは殆ど修復されておらず、荒れ果てていた。裏山に上ると西安事件の宿舎がそのまま残っている。

           

                 雪の華清池

 此処から、始皇帝の陵墓を横目で見ながら、兵馬俑に向かった。

始皇帝の墓のあたりで説明を聞いていると、子供が寄ってきて、紅衛兵の帽子など出して買えと言う。十二支をかたどった土産品などは何も無かった。

 兵馬俑も、一号抗は覆いの建物があったが、まだ、他の抗の発掘はなされておらず、延々と並ぶ人馬が歴史の後をとどめていた。何よりも今日では、見ることの出来ない、工人の作業場、そこで死んだ工人たちの墓と屍骸などや、有名な銅馬車も復元されていない姿をそのまま見ることが出来た。

           

                   当時の兵馬俑(一合坑)

 今のように、土産物屋とその客引きもおらず、ゆっくりと見学が出来たのである。

実は、案内してくれた女性も、半波遺跡や、兵馬俑の工人坑などは、初めてで、今日は骸骨を見すぎて、頭が痛くなったとの感想であった。