パリのNo Problem

 

それは、ポーランドとの技術提携の交渉をやっていた時代のことである。

事業部のK君と例によって、ワルシャワから、ポーランド航空(LOT)に乗ってパリにでて、

北極回りで帰るコースを取り、パリまででてきた。

ドゴール空港からバスで、パリ中央バスターミナルに出て、そこの案内所で、宿を紹介してもらい、一泊して帰るのである。パリの一泊と言っても金があるわけでもなし、場末のホテルに泊まって、せいぜい、飯を食って、日本では見れない映画など見るくらいである。

 さて、宿に着くと、ばあさんが出てきて「パスポート、パスポート」と言う。良く外国ではパスポートを預かることがあるが、パリでは始めてである。なぜだと言うと。なにやらフランス語でまくしたてる。小生は、フランス語などお経と同じでさっぱり分からない。同行のK君が察する所、

テルアビブの日本赤軍事件の為、日本人と見れば、パスポートを預かっているらしい。

              

               懐かしきパスポートと当時のポーランドのビザ

ばあさんが「No Problem」と言うから、パスポートを預けて、飯など食いにメトロに乗って、シャンゼリゼ方向に行き、其の夜は帰ってきて寝た。

 翌朝、出発するので精算に行き、パスポートを受け取ろうとしたら、K君のパスポートがない。どうなっているのかと文句をいうと、ばあさんはまた、「No Problem」の連発である。

何がノープロブレムだ、他にパスポートはないのかと文句をいうと、パスポートを持ってきた。

若い男のパスポートである。その男はチェックアウトしたのか、宿帳を調べると、どうやら新婚さんらしい。同姓の女性と泊っている。二人は、男が間違ったパスポートを受け取り、調べもせずにパリの見物に出かけてしまったらしい。

 こちらは、二人のパスポートを同時に渡し、向こうも同時に渡したはずであるから、そもそも間違って渡すことは考えにくい。まあ、若い二人は、二重の時差ぼけで仕方がないかとも思ったが、ばあさんは、相変わらず「No Problem」の連発である。

 小生ひとりで帰る訳にも行かず、帰る日がずれるのも連絡せねばならなし、いずれにしても、航空券を切り替えねばならない。今のように、ホテルから国際電話やらFAXでチョイチョイと連絡することが出来ない時代である(第一、安宿に泊っているから、フランス語の交換手を通じて、日本と電話をつなぐなど不可能である)。

 そこで、どうせ、航空券の予約も必要だし、シャンゼリゼJALの店がある事を思い出した。JALの本社には、小生の高校の同期生がいる。パリから、テレックスを入れて連絡を済ませ、結局、帰りの便は、南周りになってしまった。

 さて、帰れないのは、勿怪の幸いと言うものである。昼は、パリの市内を見物し、とあるレストランに入り、生牡蠣やムール貝などを肴に、ワインなど飲んで愉快にやっていると、「君達は日本人かね?」と聞く夫婦連れの親父がいる。今でこそ、パリの表通りは、何処へ行っても、日本人だらけであるが、当時は、殆どいない時代である。

 若い奴が、昼間から、ワインなど飲んでいるのを奇異に感じたのであろう。「かくかく、しかじか」と事情を話すと、「それは、えらい目にあったな、俺は、こういうものだ」と名刺をくれた。

当時、日本ではやっていた、抱っこちゃんを売っているおもちゃ会社の社長である。

パリの話など聞かせてもらい、ワインを飲んですっかり出来上がった。(残念ながら、勘定まで持ってはくれなかったが)、少し、時間があるから、映画でも見ようと言うことで言葉など分からなくとも、良く分かる映画を見に行った。入ったときから、分かりやすい画面である。すっかり、いい気持ちで、眠ってしまい、時々目を覚ますと、殆ど、同じ画面である。

アメリカ人のおばさんの観光客がいて、キャツキャツと騒いでいる。後で旦那はえらい迷惑だろうななどと思いつつ、また寝てしまった。

 かくて、一日が終わり、宿へ帰ると、新婚旅行の二人も帰っていて、「申し訳ありません」といい、また、ばあさんが出てきて、「No Problem」と言い、無事にパスポートが戻ってきた。

 翌日は、延々と南回りである。アテネ、コロンボ、香港と経由で、戻ってきた。

この機中では、三人がけの隣が、若い日本人で、当時は、エコノミーでは酒の金が取られるから、土産の買ったジョニーウヲカーを氷だけもらって、すっかり飲んでしまった。

 とんでもない「No Problem」騒動であった。