インドネシアの地鎮祭

 

 私のいた工場では、戦後、自主技術で変電機器を製作している唯一の日本メーカーであり、昭和30年代から海外に、合弁会社や技術提携で進出していた。

 私のいた時代は、中近東から東南アジアの工業化、インフラ整備が進みつつあり、これらの国からの進出要請も多かった。

 これらの国では、変圧器では欧州メーカーとの合弁メーカーがあり、先方の希望するガス開閉装置の生産を合弁でやろうと言うことになった。

進出先としては、タイ、フィリピン、インドネシアなど色々な国を検討したが、国の規模が大きいこと、多くの輸出実績があり、電力会社と親密であることがインドネシアを選んだ大きな理由である。

しかし、ここに決めた本当の理由は、回教国であるが規律はほどほどであるし、今後、中近東の仕事をやる上で、ここの人を派遣するのに都合が良いということと、もう一つ、稲作が中心であり、決められたことをきちんとやると言うことであった。           

 他の国の人のほうが、勤勉で積極的であるという人も多かったが、一箇所に定着し仕事をきちんとやると言う点では、稲作農民が最も適している。

こんなことから、さる工業団地に工場を建設することとなり、経理や総務、製造部門などの人材を派遣し、準備が始まった。

工場の設計も終わり、建設に入る段階となり、地鎮祭をやるので来て欲しいという。

起工式と言うのは、セレモニーとしてよくあるが、インドネシアの地鎮祭とはどんなものだろうと事業本部長を長として出かけていった。

 天幕をはり、花を飾って、大勢の来客を呼んで、にぎやかに式が始まった。

              

まず、一団の着飾った女の子達が、楽器の演奏に合わせ、客を案内していく。

客が着席すると、その真ん中に、囲炉裏の半分ほどの大きさの四角い穴があり、周囲の一部をレンガで囲ってあった。

 電力会社や、合弁企業のお偉方、当社の代表などが、傍においてあるレンガを一個づつとって、セメントをつけて、積み上げ、四角い枠を完成させる。

日本でいう、いみ鎌、いみ鋤、いみ鍬、と言った具合である。

それが終ると、一段とにぎやかに音楽が奏でられ、静々と、何かをもって、入ってきた。これが、生贄であり、羊の頭である。これを穴の中におさめ、土をかける。

この羊が、この工場を鎮めるという訳である。

そして、いよいよ、神職回教の坊さん)の登場である。なにやら、コーランの一節と鎮めの文句を述べたらしい。

後は、来客の祝辞で、式を終了した。国は変わってもセレモニーは良く似ている。

 式が終ってから、楽隊のマネージャーのおばさんが、若い連中に楽隊の彼女達はいかが?と誘いがあったとの事で、これも日本の精進落しみたいなものか知らん。