「古い油にしては性能が良い」

            これまた昔の話です

 ルーマニアの大地震の後、変圧器の技術提携の話があり、でかけることとなった。このような話となると、輸出営業は関知せず、海外協力部の扱いとなっている。

この部門は、商社との関係も薄く、部も人手が少ないこともあり、一人で行くのが常である。

 いつもの様に、パリ経由でブカレストに入る(当時、東欧へ行くのは大抵このルート)と、誰も空港には来ていない。商社のいるホテルの名前は知っていたので、英語の分からぬタクシーの運転手を捕まえ、兎も角、ホテルに到着した。

商社と顔合わせをし、夕飯となった。ホテルのレストランで飯をくうこととなったが、ほとんど何も無いとの事で、ビーフステーキとトマトの付け合せである。醤油をつけて食うとまあまあということで、食うこととなったが、見渡すと、日本の各商社の人達が現れて同じ物を食っている。

よく見ると、各テーブルにはキッコーマンの醤油が置いてあり、それぞれに商社名が書いてある。どうやら、商社毎にテーブルが決まっているようである。

 当時は、外国人が市内に店を構えることは認められておらず、各社とも同じホテルに住んでいた。市内には、ポーランドなどと違い、遊ぶところも少なく、皆、呉越同舟で一箇所に居て、商売をしていたが、夜ともなれば、やることも無く、結局、マージャンということになる。

 そうなると、駐在員のみでは、ゼロサムの世界であり、やってきた我々が外資導入の絶好の相手ということになる。普段は、商売仇とは言うが、こうなると身内であり、ハゲタカやハイエナの集団みたいなものである。

 しかも、そのルールは、17000もちの20000返し、即ち、親のハネ萬を振ればそれで終わり。1000点50セント(当時金で、100円強)から始まり、負けてくると誰かが手をたたくとレートが倍になる。これを数回やると、最初の頃の勝ちなど全く意味がなくなる。

 何回か、やったことがあるが、一度などは、ウイーンから来た駐在員が、1000$も負けて借用証を入れたなど、やり方によっては大変なことになる。

このような連中とやるときには、ともかく、最初は、ゼロベースでおとなしく守りに徹し、多分、これが最後のレートだろうと言う段階で、トップを取るのがコツである。

 ここでは、稼がせてもらって,いい気分で翌朝は、担当の役所へ出かけた。役所のビルは、いまだ地震の後も生々しく、壁に大きな亀裂が入っていた。

しかし、当時のルーマニアは、まだ、石油資源も枯渇せず、チャウシェスクも頑張っており、中々、意気軒高であった。

 変圧器工場も結構きれいであり、整然と生産していた。例によってコンピュータプログラムが欲しいと言うことであるが、コンピュータそのものもないので、これも欲しいという。

 しかし、当時は、ココムもあり、そこまでになると小生の出来る範囲ではなく、商社に任せて、別途、打ち合わせてもらうこととした。
 そのような打合せをしたのであるが、何か、買ってくれという。そこで、色々と聞いたが、変圧器油の値段が、えらく安い。

中近東の輸出などに使えるのではないかと言うことで、サンプルを送ってもらうこととした。

 結局、技術提携の話は、お流れとなったが、油のサンプルを送ってきたので、日立研究所に送り、特性を調べてもらった所、題記の「古い油にしては性能が良い」という答えである。これは、油の色が、黄色く、古い油と勘違いしたのである。

 研究所は、油の素性を知らずに検査した結果を言ってきたのである。
これを見て
東欧圏ではやっていたロシアをひそかに揶揄する次の笑い話を思い出した。

 

 ロシアウヲッカだけを輸出していたのでは、中々、売上も伸びないので、国の総力をあげて、ビールを醸造することとし、苦心の甲斐あって、ビールが出来た。

そこで、ビールの検査で定評のあるピルゼンの試験場に送って評価してもらうことになった。サンプルを送り、しばらくして、試験成績表が返送されてきた。

そこには、講評として、「貴国の馬は極めて健康である」と書かれていた。

 

 で、マージャンで勝った金は、どうしたかって?そのまま、ポーランドに行ったので、そこで使い果たしてしまった。悪銭身につかず。