賭けゴルフ

 参院選で当選した「さくらパパ」が10年前の賭けゴルフで、厳重注意を受けたとか、警察関係者の賭けマージャンが問題になったこともある。また少し前には、会社のゴルフ大会で馬枠を決めて懸賞を掛けたことが問題になった。

しかし、麻雀やゴルフのできる人(やる人ではない!)賭けをした事がありませんか?と聞いたら、おそらく、殆ど全ての人がYESとは言えないだろう。

 そもそも、人間が遊ぶということは、殆どが優劣を競うことである。

もし、単に優劣を競うだけならば、負け続ければ、不満や劣等感にさいなまれ、娯楽とはいえない。そこに様々なルールが出来てくるのである。

1.個人の優劣を競う競技(陸上、プロゴルフ、相撲、囲碁など)では、優勝者に賞金と名誉が与えられる。

その中で肉体的優劣が中心になる競技では、如何に優秀な競技者でも、年齢には勝てない。いつか、変わっていくことが分かっているから周囲の不満は残らず、皆が楽しむ。栄華は長くて5−6年であろう。

しかし、これが、長く続く競技などでは、色々と問題が起こる。したがって、強者には

精神的な謙虚さなどが求められる。尾崎や朝青龍など最盛期にはあまり文句は言われなくても、その言動などに批判が集まる。

2.団体の競技では、メンバーが入れ替わる。集団としての強さは、翌年には伝説と

  なる。ハンカチ王子、佐賀北、ハニカミ王子、皆伝説となる。

  その中での個人の活躍は、よほど優れていない限り、代わりがあるから問題には  されにくい。清原などが良い例で王やイチローなどで始めて真に優秀と言われる。

これらは、才能に恵まれない我々には、見て楽しむ競技である。見るだけなら、人間がやる必要もない。馬でも、牛でも、犬でも、鶏でも何でも良い。

しかし、それだけでは、面白くない。参加意識が高まらない。そこで、TOTOやら馬券やらということになる。

 勝敗に金などを掛けるのは問題であるという考えもある。そこで、これらの競技は、神にささげる儀式である、それに勝つことは、大きな名誉であると同時に、勝たせて満足感を味わうと言うやり方も生まれてきた。(八百長とも言う??)

 しかし、弱い我々には神も仏もない。自分も勝負に参加したい。自分でやりたい。

したがって、勝負事競技とは言わない)には、ちょっとした刺激のために、チョコレートやら図書券やら今夜の酒代やら(要するに金)を掛けるのである。

これによって、相手の心理や正確を見たり、先を予測したり、自分の集中度を高めたりすることが学べるのである。(やくざとやって身ぐるみはがれるなどは論外である)

何らかの勝負事を真剣にやったことのない人は、これらを訓練する機会を逸しているといえるだろう。但し、真剣という度合(賭けの度合い?!)が問題である