山陰・山陽の旅(その5)

                    神話の国、出雲

 古代の最も有力な氏族の支配した出雲にやってきました。この地方は新婚旅行で回った土地でもあります。そういう訳でもありませんが、こちらも、山の神が天下って、ここから二人旅になります。

 

(4月3日)

 今日は雨になるとの天気予報。6時頃、向かいの元湯に行くともう地元の人が入っている。7時過ぎに温泉津の宿を出て三瓶山に向かう。

途中、石見国一宮の物部神社による。ここの主祭神は、物部氏の初代、宇摩志麻遅命である。この命の父、饒速日命は、十種の神器を携えて大和に現れ、大和遷都に貢献、この命も美濃、越などの制圧に貢献し、最後はこの地に移ったという。どうやら、出雲の勢力を牽制する為でもあったらしい。

物部神社は各地にあり、奈良の石上神社が物部氏の総氏神となっている。古墳時代から飛鳥時代に強大な勢力を誇った氏族でもあります。

ここの鳥居は木造の巨大なものですが、丁度改修中。(改修前の姿を写真借用)、勾玉をかたどった珍しい御手洗などもある。まだ、8時半で社務所も開いていなかった。

 

      物部神社                         勾玉の着いた御手洗  
                  

                         改修前の鳥居

 ここに着いたころから雨が激しくなり始め霧も出てきた。これでは何も見えない。三瓶ダム湖(さひめ湖)の横を通り、三瓶自然館サヒメルによる。雨で予定より早く着き、同じような何組かの人達と15分ほど待って見学。三瓶山の自然、成り立ちなどを紹介するどちらかと言えば北海道によくあるエコミュージアム的なもの。この近くの麓の方に三瓶小豆原埋没林公園があり、縄文時代末期の三瓶山の噴火による土石流で埋没して杉林が発掘されて残っている。

この杉の一部もサヒメルで見ることが出来る。今日でこそ出雲地方は製鉄で木が伐採、植林が繰り返されて巨木は無いが、縄文から弥生時代はこのような巨木が多くあり、出雲巨大な社殿が作られていたと言うこともうなずける。エジプトのファラオの御座船(太陽の船)がレバノンの杉で釘を使わずに造られていたというのと同じような話である。

 

    f桜がちらほら咲く、さひめ湖畔               三瓶自然館サヒメル  
                   

                           雨と霧の三瓶山

ここを出て三瓶山の周回路を廻るも雨と霧で何も見えない。立久峡などの渓谷もあるが、これでは見ることも出来ない。三瓶温泉も早すぎて開いていない。

女房とは、出雲大社で落ち合うことになっていたが、空港で迎えてやろうと直行。

大雨で駐車場は端の方しか空いておらず、待合室に行くのにびしょぬれ。

12:05分到着と言うのでパンと牛乳で昼飯を済まして待っていると、小さな空港ゆえ有視界飛行しか出来ず、15分伸び、30分伸びで、結局、霧がひどければ、岡山空港に向かうとか言うアナウンスを聞きつつ待って、13:20にようやく着陸。大社で待たなかったのは正解。これもまた、厳島のロープウエイのおかげ。

 出雲国一宮出雲大社には14時半過ぎに着き、参拝。宝物殿、彰古館など見る。出雲国一宮は後で行く熊野大社であると言い、ここは明治まで杵築大社と言われていた。出雲大社の祭神は、ご存知、大国主命。大和の勢力に入る条件としてこの地に柱が地の底まで届き、千木が空高くそびえる住まいをつくってくれればそこに隠れ住むと言ったと言われる。その後、縁結びの神といわれるが、大己貴神、大物主神、大地主神など様々な別名を持ち、各地の平定のシンボルとして、全国の国作りに励んだと言われている。ついでに、行く先々で妻を娶り、子作りにも励んだようである。

この地に巨大な神社があったことは、文書に書かれていたが、近年、3本の巨木を束ねた9本の柱が出てきて、その存在が確実視されている。

 

     出雲大社(天照とはいかなかった?!)       出雲大社(昔は晴れていた!) 
                     

                          
巨大な心御柱

ここから日御碕に向かうが、灯台への道は狭く、風雨も強く、灯台の上では飛ばされそうになるほどであった。ここで、5時近くになったので一畑薬師に行くのはあきらめ、海岸沿いの狭い道から431号線に出る。雨でなければここも良い景色であろう。

                                                      
             日御碕灯台               灯台からの眺め
        

そのまま、宍道湖の北岸を走り、途中、道の駅「秋鹿なぎさ公園」で休息したが、道の駅と言うより、スポーツと広報の設備に近い。

宍道湖も天気がよければ眺めも良いと思ったが残念。松江に18時ごろ到着。松江ニューアーバンホテル別館に泊まる。ここは、3階の温泉大浴場から宍道湖の夜景が良く見えるというビジネスホテル。

(この日208km)

 

(4月4日)

 朝風呂に入って、7時前にホテルを出る。桜の名所の島根町もまだだと言うので、加賀潜戸方面は止めにして後で回る予定の華蔵寺に向かう。参道の下に車を止め、300段ほどの石段を登る。

途中、杉井の冷水、不動明王の石像などがある。この寺は、平安時代から栄えていたが尼子と毛利の戦いの戦火で堂宇は焼失、今は寂れて本堂もトタンで仮修理をしてある。

この地方には、至る所、毛利と尼子の戦いの傷跡がある。

ここの展望台からみた景色は素晴しく、中海から日本海、晴れた日には隠岐の島まで見えるというが、生憎、沖は雲がかかり見えなかった。

                 

                      
参道の不動明王

     

                          華蔵寺から見た宍道湖

                                        再び松江に戻ったのが、840分頃。松江城の天守に上る。松江城堀尾氏富田城から移り建造、嫡子無く廃絶の後、京極氏が完成させたが、これも嫡子無く廃絶、松平氏が後を継ぎ明治まで続いた。別名千鳥城と言い、徳川時代以前の天守としては、全国に12城しかなく。山陰で唯一のもので重要文化財である。明治の廃城令により米100俵で売られるところを地元の有志が救ったとか。

 

          松江城                      天守からの町の風景

下の物産館で名物の蜆の佃煮など買って、出雲風土記の丘に向かう。しかし、ここの歴史資料館は月曜でお休み。

この一帯は神社が多く、日本海側から来て根拠地を構えた多くの氏族がいたのであろう。

先ず、近くの神魂神社に行く。小さな神社だが大社つくりの古式を伝える神社として国宝になっている。八重垣神社も行きたかったが時間の関係で省略。

 

                   神魂神社                         大社つくりの本殿                                                        
ここから、さらに、熊野大社に向かう。ここは、かなり離れている。社伝に拠れば、祭神はスサノオノミコト出雲国一宮という。出雲風土記、延喜式にも熊野大社として記述されて杵築(出雲)大社より社格が上というが、鎌倉期以来、衰退し、尼子の時代、全てが焼失してしまったと言う。

地元の人達は、征服者としてやってきたスサノウノミコトよりオオクニヌシということなのだろうか? ここで言うクマとはカミのことだそうである。

 

            熊野神社                                        拝殿を望む

 ここから、国道432号で尼子氏の根拠地、月山富田城址に向かう。月山の近くの富田山荘という所で温泉に入り昼飯を食う。ここの露天風呂はなかなか良かった。

すこし休んで細い道を城址に向かう。駐車場らしきものも無く、路肩に止めて城跡に上る。山頂に1時半頃到着。典型的な山城で、規模もそれほど大きくなく、浅井氏の小谷城等よりも規模は小さい。これでは、発展は望めないだろう。堀尾氏の代に松江に移ったのも良く分かる。

 尼子氏は一時、200万石以上まで急膨張したが、あまりの急膨張と権謀術策の為、三代で滅んだ。復興を願って戦った山中鹿之助の碑が山頂にある。

尼子―鹿之助、豊臣―幸村といった構図を日本人は好きなようだ。滑りやすい山道を下り、安來に向かう。

 

        山頂(城跡の山中鹿之助の碑)         城跡から見た安來方面

2時過ぎにつき、和鋼博物館を見る。昔、来た時に比べ新しくなっている。ここで製鉄の歴史、たたら製鉄のやり方など興味深く見た。

中の喫茶店でコーヒーなど飲みながら、日立金属安來工場の変電所の受注で望社と二股をかけられ、乗り込んで配置などを決めて受注したことを思い出す。

               

                        安來和鋼博物館

一休みして、宍道湖の南岸を9号線で出雲方向に向かう。途中、湖岸に「ファミリーパークふれあいの里」という国民宿舎が在ったので寄って見ると、3月で閉館していた。景色は良いが、温泉も無く、周辺の観光地も遠く、経営は難しかったろう。

                                 

                       今は無き国民宿舎から見た宍道湖

9号から54号に入り、山の中を進む。この一帯は製鉄関係の遺跡などが多い。湯村温泉国民宿舎「清嵐荘」に17時20分頃着く。温泉に入り食事。代わり映えしない。

温泉はすこし小さかったが、露天風呂は、まあまあ。聞けば、対岸に湯元があり、河原に露天風呂があるというが酔っ払ったので止めにした。

(この日 138km)

「神々と神社」

 以下は、私が全国を廻って感じたことです。色々なご意見もあるでしょう。ぜひ、聞かせていただきたいものです。

 一万年もの縄文時代、最も生活環境が良かった縄文中期の日本全国の人口(北海道を除く)は26万人前後と言う研究結果もある。そして、15歳時点での平均余寿命は約16歳、そしてその人口の大半は鮭などの冬季に貯蔵できる食料の多い北日本に住んでいた。縄文後期は、16万人前後まで減ったと言う。

 その後、日本に中国大陸―朝鮮半島などのルートで、渡来民が来ることになる。

第一波は、BC8世紀頃、春秋時代が始まり、周が東選した頃、これに押されて、中国南部などから渡来。早期の稲作をもたらした時代

第二波は、BC3世紀前後、戦国時代が終わり、秦が中国を統一。敗れた氏族などが渡来。青銅器などをもたらした時代

第三波は、AD2世紀前後、地球規模の寒冷化で、後漢に騒乱が起こり、鉄器などを持って戦闘集団が渡来した時代

第四波は、AD5世紀前後、日本が統一期に入り、朝鮮半島との紛争などもあり、渡来人を受け入れた時代

 ここで、注目すべきは、第二波までの渡来に対し、西日本には縄文人は殆どおらず、青銅器と稲作を持ってきた渡来人との間での紛争などあまりなく、それぞれの地方に氏族毎に部落(国)を作るのが容易であったと言うことであろう。

さらに前漢の武帝の時代(BC100年前後)の領土拡張で朝鮮半島には楽浪郡などが置かれ、この時代から、北九州などへさまざまな氏族が来た。北九州は、別れて100余国をなす、とか金印を授けたとあるように、次々と国が出来ていたのであろうが、さらに東に来た氏族が、出雲、吉備などに大きな国を作ったと思われる。そして、自分達の神を祭り国を治めていた

 そこへ、大陸で食い詰めた大小の戦闘集団が鉄器や馬(いわゆる神器)を携えて入ってきた。しかし、すでに各地には国が出来ている。これを征服して自分達の勢力下に納めていったのが国造りということになる。3世紀頃、日本独自の文化としての銅鐸は忽然と消えていった。最後まで簡単に征服されなかった国が、吉備出雲であろう。これらの国も新しい渡来人を受け入れ、鉄器の製作などで強力になったと思われる。吉備の枕詞は「まがねふく」

北九州は、朝鮮半島の影響もあり、すでに早くから戦争になれ吉野ヶ里のように防御も硬い。これらを避けて、大和制圧ということになり、若狭丹後など幾つかの戦闘集団が協力し、大和を制圧したと思われる。それにつれて周辺の国も次第にまとまって、古墳時代、飛鳥時代となっていった。

 天照卑弥呼神功皇后と言った女性が活躍するのはなぜだろうか?食い詰めた連中が日本に渡来した時、それと一緒に来た女性は、数は限られ、シャーマン的な権力を持つか、よほどの才能を持つものに限られたのであろう。そして、これらの女性は、自分達の部族の純粋の血筋を持つものである。その血統の女性達は特別の扱いを受けたのであろう。

 大体、戦闘集団というものは、食料と女性は現地調達である。戦いに勝てば、戦闘員は殺し、女は自分のものにし、子供は奴隷にすると言うのが共通している。

後漢の末期、寒冷化で、食料がとれず、黄巾の乱が起こり国が乱れた。この時の戦闘集団は、隣の城を攻め、男や役に立たない者は殺し、食料を没収し、それがなくなると、人間まで食料にしたと言う。後漢の中頃の億に近い人口が。わずかの間に2千万台まで減ったと言う。

余談ですが、今の中国は、一人っ子政策と男子尊重で、若い男子は女子に比べて1200万人も多いとか。一方、周辺の少数民族は、華やかな中央の文化に目を引かれ、男は、就職先は少ないが、女なら幾らでもある。そして、都会に出てきて、ここで結婚と言うことになると、少数民族の同化はきわめて早いかも知れませんね!!

 さて、弥生時代の人口は60万人前後とも言わるが、東日本の人口は縄文時代と大差ないから、西日本の人口は、これでも大幅に増加した。(10倍以上

これらの戦闘集団もまた、祖先神を祭り国を作った。一宮に代表される神社の由来を調べると、その祭神は次のようになるであろう。

  大和の神の系列―――――――征服者である大和の神を筆頭に置く。色々な言い伝えを古事記や日本書紀として纏め、延喜式などに由来がある。

  氏族の祖先神の系列―――――大和と協力し国を築いた祖先。記紀や延喜式にも出てくる。

  産土神―――――――――――その地方の弥生時代からの氏族の古い神で大和に従った。風土記や延喜式などにも出てくる。

  悪しき神――――――――――その地方の弥生時代からの氏族の古い神で大和に従わなかった。

  ―――――――――――――神になれなかった反逆者など。

どの神社もこれらの神の組み合わせである。東北地方のように後から征服された地方には、大和の神が悪しき神を討伐したという所が多くなる。

 しかし、朝廷の権威が確立し、大和の神を主として祭事を行うとしても、これに協力した豪族や出雲のような豪族の神はそのままでは対等と言うことになります。

そこで、新しく入ってきた仏教を政治の手段として、国分寺などを通じて全国に広めた。それが、神仏習合という形になっても、朝廷の権威は保たれた訳だと思います。

古墳時代になると、大和朝廷下で地方に権力を与えられた豪族は、稲作の拡大に注力し、8世紀には、人口は600万人位まで増えている。(さらに10倍)

寒冷化で海が後退し、開拓がやりやすくなり、その後、気温が上がって稲作が広まるといううまい循環ができたのであろう。

そして、国内統一が進んで、国力も付き、朝鮮半島に事を構え、唐と新羅に破れ、次は東北と言う順番になった。さらに鎌倉時代以降、北海道、そして倭寇から秀吉までつながり、明治以降はご承知の通りである。