因幡の白兎

 久しぶりに、古事記を読みました。それは、福永武彦氏のやさしい現代語訳が出たからです。

色々と感想を書きたいことが多いのですが、有名な因幡の白兎について感じるところがあったので、書いてみます。

 大国主には、80人の兄弟がいました。そして、稲羽(後の因幡)のヤカミヒメを、皆が、妻にしたいと思っていました。そして、出雲から出かけていったのですが、皆は、オオクニヌシを召使のように扱い、荷物を持たせたので、それを大きな袋に入れて、担いでいったのです。その時、途中で、皮をはがれた兎に出会ったのです。

 このは、向こうに見える島に渡りたいと思い、うまい方法がありません。

そこで、わに(さめ)をだまして渡ろうと、わにざめに、おまえの仲間と、俺の仲間が、どっちが多いか調べよう。沢山いて、数え切れないだろう。ここから、向こうの島まで一列に並んだら、俺が数えてやろうと言ったのです。

わにざめは、喜んで、並んで、その上をは渡って行ったのですが、渡り終える直前に、おまえ達は馬鹿だ、俺はこっちの島に渡りたかっただけだと言った為に、わにざめにつかまり、皮をはがれてしまったと言う訳です。

 荷物がないので左記に行った80人の兄弟が、海水で体を洗って、高い所で乾かせ、言って通ったので、その通りにすると、体が赤く焼けて痛くて堪らなくなったのです。

そこで、オオクニヌシは、川の真水でよく洗って、蒲の穂を敷いて、それに包まれと教えて、兎がそのとおりにすると、元の体に戻ったのです。

 そして、兎は、あの姫様を、自分のものに出来るのは、あなたでしょうと言ったと言うのが前半の話です。

 

 さて、この話は、オオクニヌシが情け深いということで、唱歌にもなっているのですが、皆さんは、どう思いますか?

当時の99%の人は、人をだますような奴は、悪い奴で、もっと罰を受けるべきであると言う倫理観であったのではないでしょうか?

 その中で、オオクニヌシの行為は、稀有のことで、賞賛に値するものであると考える人が、時が経つにつれて増えてきて、修身の教科書的唱歌にもなったのでしょう。

しかし、も、凶暴なわにざめをだます位ですから、馬鹿ではありません。

わらにもすがるつもりで、治療法を聞いたのに、自分もだまされたので、どう言えば、同情してもらえ、よい方法を教えてもらえるかを考えたに違いありません。

それに人の好いオオクニヌシは、うまうまと騙されたという解釈も成り立ちます。

 

 さて、話の後半は、いよいよ、嫁取りの段階になり、ヤカミヒメは、兎が言ったとおり、オオクニヌシを選びます。怒ったほかの兄弟は色々なわなを仕掛けて、オオクニヌシを殺そうとします。

このままでは、殺されてしまうと考え、母親であるサシクニワカヒメノ命は、おじいさんにあたるスサノオノ命に助けてもらったらよいだろうとの助言をし、スサノオの所へ、逃げて生きました。

その時、スサノオは留守で、娘のスセリ姫(ということは、おばさん?!)が出てきたのですが、早速、気に入って、手を出してしまいます。

最初は、スサノオも怒って、殺そうとしたのですが、かわいい娘のことゆえ、許してやり、オオクニヌシを助けたので、ほかの兄弟も、オオクニヌシに従い、国造りに入ったと言うわけです。

 ところで、このスサノオの娘のスセリ姫が正妻になったのですが、大変なやきもち焼きで、先のヤカミヒメは、怖くて子供を置いて逃げてしまいました。

浮気者のオオクニヌシは、その後も、色々と女出入りでもめて、ついに、旅に出て冷却期間をおこうとしたのですが、別れの歌など歌っているうちに仲直りをしたという次第です。

 

 この後半を読むと、今のウーマンリブからするととんでもないことに違いありません。

しかし、強いものが子孫を残すということが生物の生存と、進化の基本ですから、これが当然のことであったのです。

いま、色々と主義主張をしている人達も、子孫を残せなかった、多くの人達の犠牲の下で子孫を残してくれた先祖の後裔であるのです。

 正義とか、倫理とは、一体なんでしょうか?