仏はいつも生きて

 お釈迦さまは、八十歳でお亡くなりになったのでない。この世の人々を助けたいために、八十歳で亡くなって見せられたのである。この世にお生れになったのも、この世の人々を助けたいために、人間の相になってお生れくださったのである。そして人間の迷いの月日の中に苦しんで、そして目覚めるものに成って見せて、目覚めるということが、いかに尊いことであるか、それを人々に充分納得させるために四十幾年の努力をして、そして八十歳を一期として死んで見せてくださったのであって、お釈迦さまはいま現に生きていらせられる、私たちの側に生きていらせられるのであることが、『如来寿量品偈』に示されているのである。

両祖大師のおさとし

 久遠実成の釈迦牟尼仏の智慧を慈悲を歓喜を、ひたひたと感得している心を高祖大師は「即心是仏」であると賛歎なされ、そういう尊い心を領得しることが、特殊の人だけに限られているのでないことを、私たちに明確に納得させたいおこころから「即心是仏といふは誰といふぞと審細に参究すべし」と仰せられているのである。また太祖大師は、即心是仏に承当するその道が、ひたすらなる精進にあることを明示いたされて「汝らの精進と不精進とによりて諸仏頭出頭没せるのみなり」「汝らすでに仏子たりなんぞ仏を殺すべけんや」と仰せられるのである。

仏祖正伝の坐禅

 ところで、お釈迦さまは、仏に成られたとき、坐禅をしておられ、仏に成らせられてのちのちも、坐禅をしていられたのである。
 宗門では、お釈迦さまのごとくに坐禅をなし、坐禅そのものになりきってしまうことが、安心の究竟でなければならない。

行持まことに綿密

 お釈迦さまは、たってお歩きになることもあり、横になってお休みになることもあったことは勿論である。が、しかしお釈迦さまはいつどこで何をなされているときでも、坐禅のときの境地をそのまま持続していらせられるので、お釈迦さまは何をなされているときでも、その威儀が端正であり、行持がまことに綿密であられた。
 宗門で威儀即仏法といい、作法是宗旨というものも、お釈迦さまのそれのごとくありたいことを、ひたすら念じてのことであり、行持を綿密にと申すのもそれである。

曹洞宗宗務庁発行
宗侶必携より