ひとりごと
うちの長男は老人保健施設で介護福祉士をして、一人暮らしです。
いつも周りから、優しく素直に育てたと言われますが、私には言い出したらきりがないくらい、人様には言いにくいこともありました。
息子達を見てると、いつも子育てで起こった様々なシーンを思い出します。
長男は、おっとりしていて周りのスピードについていかれない、世間で言う落ちこぼれの子でした。
共働きでしたので、当時の町の保育所事情から一山越え隣の小学区にある保育所へ通っていたせいで、入学した小学校には誰も友達がいなくて、その上大人しさがゆえになかなか友達が出来なくて、気づいた時はいじめにあっていました。
表面的にはわからないのですが、歩いている時急に足を出して転ばされたり、学校の行き帰りにわからないように後ろから田んぼに落とされたり、ある時は学校帰りにジュースを買うお金をもってこいと言われたり。。。
運良く1軒おいて隣に、同じクラスの活発な女の子がいて、入学した頃から家族ぐるみでお付き合いするようになり、問題が起こったときはその女の子から教えてもらっていました。
私は黙って通り過ぎることが出来ない性格なので、問題が起こる度担任へ電話しました。
でもなかなか改善されなくて、初めて迎えた夏休みは家の中に閉じこもっていて、2学期が始まった時は体重が急激に増えてしまい、完全な肥満児になってしまいました。
肥満児になるとよけいにいじめもエスカレートしていったみたいで、毎週1〜2回はストレスからくる自家中毒や喘息発作で点滴を受ける始末。
そんなことが続いて、親としてどうしたらいいのかとずいぶん悩みました。
その頃から、私の病気もわかり体調を崩すことが頻繁に起こりました。
当の長男は私を心配してか、家の中ではすごく素直で、夕方になるとご飯をセットしてくれたり、洗濯物の取入れをしてくれたり、掃除機をかけてくれたり、下の子の保育所のお迎えに自転車で行ってくれたりして、私の負担を減らすように気配りしてくれていました。
でも、一向に水面下ではいじめが続いているようで、その上に肥満も進行していきました。
玄ちゃんと私は、子どもたちが寝てから、長男のことで毎晩のように話しました。
いろいろと考えた末、私は学校での様子を知りたい一心で、PTAの広報委員も引き受けました。
玄ちゃんは出来るだけ近所の子ども達と一緒にふれあうために、堤防で草すべりに行ったり、プールに行ったり、お風呂屋さんツアーをしたり、花火をしたり、お楽しみ遠足をしたり、夏は家族ぐるみでキャンプをしたり、庭で焼肉パーティーをしたり。。。
最初は何かしなければとの思でしたが、だんだん地域の親同士のお付き合いは楽しくなってきて、いつからか病み付きになっていたようで、玄ちゃんもすっかり子ども達の人気者になっていました。
そのお蔭で、地域で縦線での友達の輪が出来たようで、長男は気づいた時は点滴することもなくなっていきました。
しかし、直欲旺盛な長男の肥満はなかなか改善しません。
何かスポーツでもと思い、礼節を重んじる精神ととっさの時受身が出来るからとの玄ちゃんの考えで、2年生の夏から柔道を始めました。
温和な長男は格闘技をするような性格ではなくて、本人も乗り気ではありませんでしたが、父親の説得で始めました。
柔道を始めて4ヶ月経った時、初めて出た県の少年柔道大会で銀メダルを取りました。
身体が大きくて本来の実力ではないのですが、2位になったので周りから褒められて、しぶしぶやっていた柔道は止められなくなったようでした。
本人の希望で3才の頃からエレクトーンも習っていましたが、柔道との両立が難しくなったので、4年生の秋、エレクトーンの発表会を最後に辞めてしまいました。
柔道は続けていたのですが、勉強面ではこれまた落ちこぼれ。
PTA広報で知り合った、大手学習塾をされていた友達に相談して、取りあえず学習診断をしてもらいました。
その結果は、5年になったのに繰り上がりの計算間違えもひどくて、掛け算もあやふやで、1年生の漢字も満足に書けないのがある始末。
ただ私が本が好きだったので、小さい頃から毎日本の読み聞かせを毎晩続けていたせいか、文の内容を汲み取るのだけは出来たようです。
ただし、本の感想文はひらがなだらけ。。。。
学校の担任に相談しましたが、特別扱いは出来ないからと言われ、家で私が勉強をみてはいたのですが、どうしても甘えが出てしまい、友達の学習塾にお願いしました。
その学習塾は子どもの到達レベルからやってもらえて、恥ずかしい話しですが、算数は1+1=から始めました。
国語も小学校1年からやり直しました。
その効あってか、小学校卒業する頃にやっと同学年レベルまで追いつきました。
勉強がなんとか追いついてきはじめた6年の1学期、授業中わからないことばかりで退屈になり、協調性がない長男はどうやら教科書を広げないで、図書室から借りてきたルパン全集や江戸川乱歩を堂々と机に出して読みふけました。
担任が何度も注意しても「この方が面白いもん。」
担任の先生は家まで来られ「お母さん、こんなことを言われたのは初めてです。」
「お宅の子のいいとこが、私には分かりません。もう私にはお宅の子は教えられません。」なんて言われてしまいました。
確かに勉強は出来ませんがいいところがないと言われたからには、母としては腹の虫が治まらないので、
「確かにうちの子は勉強は出来ないけど、それは言い過ぎってもんじゃないでしょうか?
それ相応にわからない子に勉強を教えられてますか?
うちの子にもちゃんといいとこはあります。先生は、子供のいい面がわからないからって知ろうとはしないのですか?
教師は教育をするのが仕事でしょ?
私は看護婦をしていますが、目の前の患者さんが言うことを聞かず、なかなか自分の病気を理解しないからって、ほおっておけないですよ。
ちゃんとその人が理解して療養していかれるように心を砕きますよ。
それがキャリアってもんじゃないのですか?」って、つい言ってしまいました。
その様子を物陰で聞いていた長男は、どういうわけかそれ以来、教室でちゃんと教科書を広げるようになりました。
中学に入学するに関してもいろいろありました。
長男の通う学校は柔道部がありません。
本人の希望で、柔道部がある学校へ行きたいとのこと。。。
奈良には2校の柔道部が有名な私立中学があります。
でも、明らかに無謀な願いです。
しかしこれからの学力の向上のチャンスに結びつかないかと考えた私は、「今までの勉強をしなかったからほとんど無理があるけど、地域の中学校へこのまま行ってもまた同じことの繰り返しやから、理科と社会もあるけど思い切って受験勉強をやってみようか。」と長男と話し合いました。
失敗すること覚悟して、無謀な中学受験をさせました。
算数と国語はかろうじて塾で標準のレベルまで達しかけていましたが、理科や社会は皆目です。
本人はやる気なので近くの大学生に家庭教師を頼みました。
結果は、想像通り不合格。
しかし、私のもくろみ通り小学校の勉強全体がなんとか理解でき、その上小学校の授業で丁寧に教えてもらっていなかった「日本国憲法」も理解させて、同級生と同じレベルで中学校をスタートすることが出来ました。
中学では柔道部が無いので、筋力を鍛えるために水泳部に入り、夜は週3回町の柔道場へ通いました。
中学3年の時、15歳になって念願の黒帯も取りました。
しかし、取ったのを境に道場へ行かなくなりました。
「お父さん、黒帯を取ったら辞めるつもりやった。もうこれでええやろ。」
青天の霹靂とはこんなこと言うんでしょうね。
黒帯をもらう直前の県大会で優勝してたのにです。
当然、周囲の説得があったのですが、それ以来辞めています。
考えてみれば、柔道は本人がやりたいと思って始めたのでなく、親の勧めでした。
それが体格のよさが手伝ってか、がむしゃらに練習しなくても好成績を修めていたから、いつのまにか柔道の束縛から抜け出られなかったようです。
柔道を辞めて高校受験を考えて進学塾へも行き始めた頃、急に部屋に閉じこもって家族と話さなくなりました。
学校へはちゃんと行っていたのですが、塾もそのうち行かなくなってしまい、ご飯も私が作った物は食べなくて、夜中寝静まった時冷蔵庫を開けて自分で作って食べていました。
これにはほとほと困りました。
私も玄ちゃんも眠れない毎日でした。
家の中で顔を会わせてくれないので、思い余った私は長男に思いついたまま私の中学校の時のことや初めて社会に出たときのこと、私が社会の中で体験したことなど、今になったら何をどう書いたかはっきり覚えていませんが、毎日手紙を書いて学校へ行った間に机の上に置きました。
毎日読んでくれてたかどうかは、今になってもわかりません。
「ご飯が出来たでぇ〜」「お風呂空いてるでぇ〜」「もう寝るからなあ。。」とか、毎日声をかけても出てくれない子ども部屋のドアに向かって普段通り話し掛けていましたが、返事が帰ってきませんでした。
確か3週間ぐらい経った時だと思いますが、その日は土曜でお昼まで私が仕事だったので食事の準備が出来なくて、「ホカ弁買ってくるから何にする?」と、答えを期待せず言ったら「から揚げ弁当」って答えが帰ってきました。
狐につままれてるようでしたが、その日を境に普通の日常に戻りました。
すっかり閉じこもりから抜け出たのですが、数ヶ月間勉強に手をつけてなかったせいで、また落ちこぼれになってしました。
業者テストの偏差値が10も下がってました。
もう受験校を最終的に決めなくてはという時にです。
その時、急に就職するなどと言い出しました。
玄ちゃんは呆れていましたが、私は自分が親に反抗して中学を卒業してすぐ家を出て働いて学校に行った経歴があり、それ相当の覚悟があればいいと思いました。
私は長男と正面きって話しました。
義務教育を終えたら、確かに大人の中でやっていけます。
しかし、仕事につき自立することは自由であるけど、半面自立することは衣食住を自分でやっていくことで生半可な覚悟では出来ないけど、このことは自分で考えなさいと言いました。
自分なりの将来設計も立てているか聞きました。
数日間真剣に考えた上で、「高校に行かせてください。3年間で将来を考えます。」とのことでした。
遅れた勉強を取り戻すために、個別指導の塾で猛特訓を受け、かろうじて高校は合格しました。
高校生に入ってすぐ美術部に入部し、ジュニアー県展で県議会議長賞も受賞しました。
勉強はそう出来は良くなかったのですが、学生服の詰襟のホックも上までかけるくらいの堅物だったせいか、先生の受けも良くてクラス長もしていたようです。
しかしその反面結構面白いこともやっていました。
駅前の路上でギターを弾いて歌っていたり、平和問題に取り組んだり、青年運動に興味を示したり、まさに青春している息子は親としても結構楽しみでもありました。
高校3年生になり、いよいよ進路を決める時に来て、一旦は就職を考えました。
その頃はすでに就職難が始まっていました。
これと言って絶対なりたいと言う職業も見出せないまま、一向に会社面接が決まりません。
そんな時、突然音響の専門学校に行きたいと言い出しました。
これには親としても、現実の厳しさを考えたら反対せざるを得ませんでした。
幸いにも周囲にNHKで音響をしておられる知人や放送局でディレクターをしていた叔父や音楽仲間を数多く知ってるピアノ調律師をしている私の兄に、長男も交えて相談に乗ってもらいました。
いろいろ考えて出した結論は、それまでとまったく違う職業の介護福祉士になりたいとのことでした。
幸いにも真面目に高校生活だったので、運良く介護福祉士の専門学校には、推薦入学で入りました。
2年間の学生生活も順調に終わり、老人保健施設に就職と同時に一旦は独身寮に入りました。
家を出るときは、親の手伝いも何もかも断って、家にあるものを持って自力で一人暮らしを始めました。
それから7年間、独身生活を満喫しています。
長男はかなりマニアックな性格で、乗ってる車はクーラーもなく夏は暑く冬はコートを着たままで乗る、35年前のワーゲン。
ギターもかなり凝っていてアンプまで買ったみたいで、いろんなとこへロックコンサートに行ったりします。
年休をためては、一人バイクで遠くまで旅行に行ったり、ハラハラもさせられました。
一度はやってみたいと、髪の毛を真っ白に染めたりもして、仕事に行く度に黒のスプレーで染めていったこともありました。
小学生の頃から集めてる野球カードも、まだ集めています。
数年前から、老人施設のイベントにと、三味線やバイオリンを独学で弾いたりもします。
少し前には、「今沖縄で、トン足食ってるけど、めっちゃうまいでぇ〜」と電話が掛かったり。。。
2年前にはダイエットに目覚めて、フルマラソンをやり始めて、30キロのダイエットもやってのけ、いろんなとこのマラソン大会に行ったりもします。
そんな気ままな暮らしぶりに、私も玄ちゃんも「これじゃあ彼女見つからへんわ。」と言っています。
さてこれからどうなるやら、親としては落ち着いてもらいたいと思う反面、こんなお気楽気ままな長男は独身のままの方がいいような気もするし。。。
親心としては、ただただ幸せな人生をおくって欲しいと思うだけです。
いろんなことを思い出したら、これまた長いひとりごとになってしまいました。
本当はまだまだ書ききれないことがいっぱいありますが、この辺でおしまいにします。
(2003/8/22)