ありがとう ゆうchan |
私がゆうchanと出遭ったのは、1年半前療養サイトのHPの掲示板で知り合いました。
ゆうchanのことは、安曇野オフ会の時も書きましたが、膠原病を20年前に発病して、5年前から24時間在宅酸素療法をされておられ、何回もの危機を乗り越えて、毎日息苦しさと身体の痛みと闘いながらも、いつも前向きな方でした。
知り合ってメール交換始めてすぐ、脳出血で倒れて一時は大変な状態でしたが、持ち前の頑張りで乗り切られました。
その頃ご主人は定年を迎えられ、ゆうchanはご自分のことを金魚の糞と言いながら、ご夫婦で仲良くあちこちに外出されるようになり、オフ会に参加することを特に楽しみにされていました。
脳出血の後遺症で、文章を作るのが困難になられていましたが、その日にあった出来事をゆうchanがメモされ、ご主人が代打ちされるという、まさに2人3脚でのHPの毎日日記のひとりごとは、頭の下がる思いで、毎日拝見するのが私も日課になっていました。
絵手紙も再開され、1年前くらいから絵手紙交換もさせてもらっていました。
ゆうchanから最初に頂いた絵手紙は「ダルマさん」の絵で、「転がっても 転がっても 何度でも起き上がればいいよ」と書かれていました。
ハガキには下手だけどねって書いてありましたが、なかなか味がある力強い絵でした。
初めてゆうchanご夫婦にお会いしたのは、私の家にです。
HPから想像していたゆうchanはもっと大柄の肝っ玉母さんと思っていましたが、すごく小柄な京都で言う「はんなり」とした方で、正直いって、どこからあのパワーが出るのだろうと思いました。
家の中に入ってこられた瞬間から、挨拶もそこそこにお互い息切れをしながら、しゃべりまくったのが、今でも昨日のことのように思い出します。
ダンナ様との組合青年部での出会い、共働きしながらの3人の子育て、保育所運動、学童保育所を作る運動、PTA活動など、お話しすればするほど私と合い通じるものがありビックリしました。
学童保育所の運動をしてたとき全国集会があって、私は友達と会場の長岡京市に行ったことがあり、その時長岡京市の進んだ学童保育所を見学しました。
どうやらその時、ゆうchanと会ってたのかもしれません。
2回目にお会いしたのは、安曇野です。
3泊4日を行動を共にし、お互い体力がないのであまり観光は出来なかった代わりに、ホテルの部屋でゆっくりお話しできました。
3回目は昨年11月奈良でオフ会でお会いしました。
そのときもいつもと変わらず、穏やかな笑顔でみんなとお話ししておられました。
時折真面目なお顔でユーモアをさりげなく言われたり、どことなく存在感の大きな方でした。
奈良オフ会の帰り際に、「春暖かくなったら関西でオフ会またしようね。」とお別れしていました。
その後も、春が来るのを楽しみにしてることを、お互いメールしていました。
昨年末の29日の朝に、自宅で倒れられ、病院の集中治療室で2週間、最後まで諦めない頑張りだったそうです。
そして1月12日午後10時43分、ゆうchanは息を引きとられました。
葬儀は、ゆうchanの生前の意志で無宗教で、祭壇はお花で飾られて、ゆうchanがご主人に酸素ボンベを背負ってもらい最後に一緒に踊られたという、ワルツの曲が流れる中で、音楽葬でのお別れ会が行われました。
祭壇には、ダンスシューズも置かれていました。
たくさんの方がカーネーションの献花をされ、予定の時間が過ぎても長い長い行列が続きました。
ゆうchanはいつもの穏やかなお顔で、苦しんだお顔でなく微笑んでいるように見えたのが、せめてもの救いです。
全国のネットの仲間からの弔電もたくさん届いていました。
お別れ会では、ご主人が淡々とこれまでの経過とゆうchanのこれまでの頑張りをお話しされました。
若い頃から、多くの人といろんな活動を通して、精一杯頑張られたゆうchanです。
在宅酸素をされるようになり、自由が利かなくなってからは、HPを開設されネットで多くの出会いがあったことも詳しくお話しされました。
ゆうchanが全国のたくさんの在宅療養してる仲間を知り、大きな励ましと生きがいをもらい勇気づけられておられました。
私は今まで、車椅子で葬儀に参列することに抵抗があって、いつも迷って結局は行くことを躊躇していましたが、思い切って連れて行ってもらって最後のお別れが出来てよかったです。
私は彼女のように立派な人生はおくれないかも知れないけど、生ある限り諦めないで生きたいと思います。
ゆうchan、いつも励ましてもらい勇気づけてくれてありがとう。
とても寂しいけど、ゆうchanのご冥福を祈ります。 合掌
(2003/1/18)