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ひとりごと

原爆の日に思う

 8月6日、今年も広島に原爆が世界で初めて投下された日がやってきました。
今年は、あの日から57年目。
いまだに世界では、戦争の惨事が繰り返され、核の脅威にさらされています。

 私の母には兄がいました。
両親に子どもがなかなかできなくて、500年以上も続いた家系を絶やされないように、母が産まれる前に遠縁から養子にきた兄です。
その兄が養子に来てからのち、私の母はおばあちゃんが42才の時誕生しました。
年もかなり離れた兄弟でしたが、母から聞く兄は年がうんと離れているいてもかなり妹の母を可愛がっていたようです。
兄の実の両親は、広島の爆心地近くに住んでいました。
当時陸軍にいた兄は、丁度あの日島根の母の家に居ました。
母は、あの日朝早くから学校の勤労奉仕で海水から塩を作る作業で神社の境内に居ました。
8時15分、南の空が急にオレンジ色に染まって空襲警報が鳴ったそうです。
中国山地に爆弾が落ちたようだと聞いたそうですが、後になってラジオから広島で新型爆弾が投下されてかなりの犠牲者が出たというニュースが流れました。

 おばあちゃんは兄の実家の両親が心配で、車が都合つかなくて馬を調達して、すぐ兄を広島に向かわせました。
それから幾日経っても、兄からの連絡がありませんでした。
母が、兄を見たのはその日が最後になりました。

 後継ぎのはずだった兄が行方不明になり消息がなく、母は500年以上も続いた家を絶やされないと、中学を卒業した15歳に、急に従兄弟の父と政略結婚させられました。
それも結婚式の前日に知らされての結婚だったそうです。

 それから何年か経って、どうしても兄の消息が知りたくて何度も母は広島を尋ねたそうですが、市役所に行ってもなんの手がかりもありませんでした。
諦めきれず何度目かに尋ねた時、日赤病院でやっと兄のカルテが見つかりました。
兄は、原爆の後爆心地近くに行ったため、残留放射能障害で広島入りした1週間経った日に病院で吐血して亡くなっていました。
原爆投下から42年も経って、遺骨はありませんがお墓を建て、原爆慰霊碑にも名前が刻まれました。
 この話を母から初めて聞いた時、なんとも言えない思いでした。
わがままいっぱい育って今でも子どものままのような総領娘の母ですが、こんな過去があることに心が痛みました。

 今でも、原爆でたくさんの被爆者が苦しんでおられます。
現在被爆者認定された方が29万人で、それでも1%の方だそうで、今でも認定されてない多くの方がおられることに驚きます。

 今朝のTVで、原爆慰霊祭の模様を見ました。
多くの方が広島の原爆の被害を繰り返さないように、平和を願っていました。
 昨年の9月起きたアメリカのテロ事件で肉親を亡くした遺族の方も、2度と戦争で多くの犠牲者を出さないようにとの願いで参加されていました。

 広島市長さんが、広島の教訓から核の悲惨さを2度と起こさないよう、テロ事件の後の世界情勢をふまえて批判を込めて演説されていました。
その後小泉総理が、平和で安全な核兵器のない世界にしていきたいと言っておられましたが、昨今のテロ事件後の世界情勢にもふれず、自衛隊海外派兵の戦争への協力にもふれない演説に、原爆で犠牲になった多くの方を思うと、言いようのない怒りさえ感じたのは、私だけでしょうか?

 原爆投下から57年も経つと被爆者の方も亡くなられたり高齢化したりで、惨事を後世に伝えられなくなることは非常に残念です。
戦争を体験してない世代の私ですが、毎年この日が来ると最愛の兄のことを涙を浮かべて話した母の無念さを思います。
平和を祈りつつ今日のひとりごとを書きました。    合掌

(2002/8/6)

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