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私の3月3日

 今年も、お雛まつりの日がやってきます。
私にとっての3月3日は、平成3年3月3日に73歳で亡くなった父親の命日です。

 父の晩年は、私の目から見れば幸せとは言い難いものでした。
以前ひとりごとで、父と宮沢賢治の思い出を書きました。
宮沢賢治のように、正直者で人から仏さんからお釣りのくる人とも言われた父でした。
古い家長制度が蔓延ってる家に入り婿で入り、3男3女をもうけて、小学校の教師をしていた父。
端から見れば、何不自由なく幸せそのもののように見える家庭でした。
しかし、父は家の中での実権はなく、釜戸の灰も自由にならないと、私は聞いて育ちました。
それでも、家族の幸せのためニコニコしている父でした。

 私が小学6年の時、仕事帰りに軽い交通事故を起こしました。
後で分かったことですが、実は常習の当たり屋だったのです。
しかし、正直で真面目な性格と人を信じる性格が災いして、結局高額の慰謝料を取られる羽目になり、それからは仕事も山間部の僻地の学校に転勤になりました。

 その時期から、両親の歯車が合わなくなり、だんだん不仲になりました。
それは子供の目から見てもひどく、学校を退職してからの父は家の中で声をひそめ見ておられない状態でした。
そんな両親を、私は見たくなくて早くから家を出て、看護婦になり勘当されても玄ちゃん父さんと一緒になりました。
玄ちゃん父さんは、どことなく父に似たところがあるんです。

 私が結婚して12年経った冬の日、突然実家から、父が倒れて意識不明だとの電話がありました。
勘当されていたので、実家に行くことをかなり躊躇しましたが、思い切って行きました。
私は病院で父に付きっきりで看病し、運良く意識を1週間目に取り戻しました。
その1週間、誰一人付き添いを変わってもらえず、父の家での位置が痛いほど感じました。
妻である母は、病院に来ても手をふれようともせず、その後退院してからというもの、不自由になった父の世話を、同居している兄嫁にさせ、目の前にいることも許さず、家庭内別居でした。
そんな父に、唯一の趣味の俳句作りで元気を出してもらいたくて、帰郷の際ハガキをたくさん渡して、俳句が出来たら送ってもらっていました。
入退院を繰り返した父は、精神的なストレスか終いには被害妄想が出てきて、それまで書き溜めていた俳句、自分史を誰かに悪用されると言い出し、いつのまにか全部捨ててしまっていました。
いつか、父の本を出してあげたいと思っていた訳ですが、かなわない結果になりました。

 亡くなる2ヶ月前に帰郷した際、私はこっそりと父から短冊に書いた3編の句を貰いました。

唐人と 交わる心 櫻もて
寒梅や 介護かいあって 吾娘笑めり
去年の巣を繕い 燕 雛を抱く

一番目の句は、昭和18年4月、師範学校生の時、岩手の句会に出句して「俳禅洞渓月宗匠」の天位を得た句です。父の一番輝いていた青春時代の作品です。
二番目の句は、意識が戻ったとき、もう会えないと思っていた音信不通の私が、目の前で笑顔を見せたので、生きてて良かったと素直に詠った句です。
三番目の句は、リハビリの効果あり、一時期快方に向かいゆっくりでも、一人で杖をついて近所を散歩したとき見かけた燕を見て、親が子どもを思う気持ちを詠った句です。

 何も目に見えるものとしては、残せなかった父だけど、私はこんな素晴らしい宝物を貰っています。
 でも、もう一つもっと素敵な贈り物があったんです。
亡くなってから、父の部屋から出てきた1冊のノートです。
それには、母への感謝の思いと自分が死んだ後の年金等の手続きの仕方を詳細に綴っていました。
最後に、「あなたにめぐり会って感謝してます。 私の愛する妻へ」と書いてありました。

 その後の母は、父に対する憎しみも消えたようで、ずいぶん丸くなりました。
父は母へどう思って書き残したか、私には計りかねますが、こんな優しくて仏さんのような父を、私は誇りに思っています。

(2002/2/22)

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