ひとりごと
今年4月20日で結婚25年の銀婚式を迎えます。
私達の結婚は沢山の思い出があり、今思い出しても感慨深い多くの出来事がありました。
玄ちゃん父さんに出会ったのは結婚する5年前でした。
玄ちゃん父さんは21才で社会人。私は社会人でしたが、働きながら学校へいっていました。
第一印象は、なんと頼りない男としか、私の目には写りませんでした。
玄ちゃん父さんは、私を4才下のわりには、なんとズケズケ物を言う女の子と写ったようです。
何度も交際を申し込まれても、恋愛感情がまったくない私は断り続けました。
しかし、玄ちゃん父さんの積極的な学校への送り迎えや寮での私への夜食の差し入れに、断りきれなく付き合い始め、だんだん玄ちゃん父さんのやさしさが分かるようになり、付き合うようになりました。
看護学校を卒業する半年前から、結婚をお互いが意識するようになりました。
しかし、私の親の猛烈な反対に会い、田舎に帰ってくるように様々な攻撃に遭いました。
実家は今でも家長制度が残る家で、一人で都会に出てそこで恋愛するなどもっての外なのです。
卒業を終えてどうしても結婚したいと言うと、とうとう勘当されてしまいました。
こうなったら結婚するしかありません。
式は挙げないつもりでいましたが、玄ちゃん父さんの親が形だけでも式をして写真を残しておかなければ、と言われました。
この年の20日は、全国的に交通ゼネストで首都圏の交通網が完全に止まり、式場のキャンセルのお陰で結婚式を偶然にも大安にすることが出来ました。不幸中の幸いでした。
しかし、玄ちゃん父さんの親兄弟だけ出席の式は、私にはとても辛いものでした。
それを知っている私達の職場の友達が、結婚式実行委員会を作り、会費制の結婚式を計画してくれました。
市民会館の大ホールで100人もの多くの友達が普段着で来てくれて、会費2000円の手作りの結婚式です。
料理も市民会館の調理実習室を借りて、飾りつけも進行もすべて友達の手作りです。
結婚式で言った「なんでも相談しあい、助け合い、お互いの人格を認め、いつでもみんなに遊びに来てもらえるような家庭を築きます。」の誓いの言葉は忘れられません。
親の援助がまったく無く家財道具もほとんどない状態で、当時流行っていた「神田川」の歌のようなお風呂も無くトイレも共同の6畳一間アパート生活が出発点でしたが、多くの友達に囲まれての幸せな出発点でもありました。
結婚して3人目の子どもが生まれて家も建て、人並みの生活がむかえられるようになった2年後に、私の病気がわかりました。
奈落の底に落とされる思いでしたが、友達が祝ってくれたあの結婚式を思い出すと沈みこんではいられませんでした。
そのせいか、我家では笑い声絶えませんでした。
あれだけ反対した私の親も、結婚12年目に父が病気で急に倒れて和解しました。
まだ完全に私のわだかまりが取れた訳ではありませんが、玄ちゃん父さんは何事もなかったように母によくしてくれています。今では、母の自慢の婿殿のようです。
そして今でも私は、玄ちゃん父さんとは隠し事がなく、お互いなんでも言うことが出来ます。
ひょっとすると、私より玄ちゃん父さんの方が気を使ってるかもしれませんが・・・・
今年やっと末っ子も社会人になり、前から子どもにお金がかからなくなったら北海道でもどこでも1ヶ月くらいかけて、まだ実現してない新婚旅行をしようと、前から玄ちゃん父さんは楽しみにしていたようですが、私の身体のこともあり、どうも無理なようです。
考えた結果、調子のいい時無理が来ない程度に近場で、単発の小旅行を気の向くまますることにしました。
貸切温泉露天風呂があり、バリアフリーの旅館の情報があれば、是非教えて頂きたいと思います。
ひょっとするとあなたの近くに出没するかもしれませんが、そのときはよろしくお願いします。
(2001/4/18)