■ ごめんね
■ ありがとう
■ さよなら
■ 信じて動くから未来が開ける 『ロング・エンゲージメント』(監督ジャン=ピエール・ジュネ)を観ました。一言で言えば「美しい映像の反戦映画」(でもR15指定)でした。そしてオドレイ・トトゥが演じる娘の「信じる愛と行動する勇気の力強さ」が映画の見ごたえです。静かなラストシーンが映画の品を高めています。愛と勇気を失って生きる人生には、平穏な退屈と静かな絶望しか待っていないのかもしれません。だとすれば、僕らに必要なのは信じる何かと、手を取り合う誰かです。 それを手に入れ、君が力強く生きて行ってくれることを祈りつつ、 最後の手紙のペンを置きます。
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※ 『手紙』のWeb版はしばらくHP上に残します。 どの検索エンジンでも学級通信手紙≠ナ検索するとトップに出てきます。 |
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■ 求めよ さらば与えられん 君は、今日図書館から配られた『読書だより』を読みましたか?卒業生を送り出した高3担任の先生たちが語る言葉に触れて、何か感ずるところがあったでしょうか?僕は昨日それを読み、8組の担任の先生が紹介していた詩に目が留まりました。 僕はクリスチャンではありませんが、信仰を持つ人の生き方の強さと深さと切なさが身に染みました。それで、ホームページでもその詩のことを調べてみました。
上は、KiriRuka.net(クリスチャンたちの言葉http://kirika.pekori.to/meigen.html)で紹介されていた訳詩です。原詩も紹介されていたので一緒に転載させてもらいました。 このホームページの説明によれば、この詩はニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に、患者だったJ・ロジャー・ルーシーというイエズス会の神父が残した詩だそうです。その経過が渡辺和子著『愛することは許されること 聖書からの贈り物』(PHP文庫)に詳しく取り上げられているそうです。興味ある人は読んでみて下さい。 渡辺和子の『愛を込めて生きる 今≠ニの出逢いをたいせつに』(PHP文庫)にはこの詩へのコメントやそれに関するゴダールの詩が紹介されていたので裏に転載します。(省略) 渡辺和子さんは現在岡山県のノートルダム清心学園理事長をしておられるシスターです。『目に見えないけれど大切なもの あなたの心に安らぎと強さを』(PHP文庫)には教師に対する厳しい問いかけをしている文章と宮沢賢治の作とも言われている詩「私が先生になったとき」が載せられています。(下に転載)それを読むほどに、僕はここでどうやって教師をし続けてゆけばよいのか、心もとなくなります。 君が、目先の利害損得から離れ、広い視野やのびやかな心と、みずから信じる何かを持って生きてくれれば幸いです。
※ 僕はこの詩を読めば読むほどに宮沢賢治の詩ではないと思います。ただその真偽より、これが宮沢賢治の詩として多くの人に語り伝えられたという事実を面白いと思います。 |
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つづく | |||
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■入学式も卒業式も通過点に過ぎないの?
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■ 新たな世界に向けてのカウントダウン この1年6組の教室で、机を並べて授業を受ける日も、あと5日となりました。夕陽が沈むたびに残された時間は失われていきますが、昇る朝日に明日あることを信じたい。 『山椒魚』の作者井伏鱒二の訳詩に「サヨナラダケガ人生ダ」という一節があります。必ずやってくる別れを知るからこそ、今日君と共にあることの嬉しさを分かちあえる。
もうここで、二度と共に受けることのない授業を、一時間、一時間じっくり味わってください。 ■ 女の前に立ち塞がる伝統と習慣 その5 今回で最終回となるKさんからのメールは、Kさんが語ってくれたとてもプライベートな体験です。誰もがきっと、人には見えない影を背負いながら、次の一歩を探し求めているのだということを、あらためて気付かせてくれたKさんに感謝します。
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■ 自ら作るコミュニティーの力 三回に分けて掲載したアンケートの回答にあるように、「家庭」や「子育て」に夢を抱いている人が多いことに、少しばかり驚きました。他人と関わり結びつき、新たな生命を育んでいきたいという意欲を持っている人は、すごいと思います。そんな思いが心に留まっていた昨夜、ニュース番組を見ていると皇太子が子育てについて語っている映像が流れてきました。その会見で皇太子が紹介した一篇の詩が、また心に留まったのでパソコンで検索しました。 そこで分かってきたのは、その詩はドロシー・ロー・ノルトの「子ども」という題の詩で、日本サッカー協会(JFA)が発行している「JFAキッズ(U−6)ハンドブック」にも載せられており、神野直彦東大教授著「『希望の島』への改革」(NHKブックス)にも引用されているようです。 asahi.comの記事(http://www.asahi.com/national/update/0223/006.html 02/23 06:11)には、その詩と共に皇太子の次のようなコメントも載っていました。
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■ みんなが欲しがるものだからじゃなく、私が欲しいものだから頑張るのです 「選んだ道をどう歩いていくのか―歩き方を互いに学ぶためのアンケート」の回答集そのBを紹介します。アンケートの紹介はこれで一応完結。君が互いに磨きあえる仲間を得て、君らしい輝きを手に入れられることを陰ながら祈っています。 ※ アンケート回答集@〜BはこちらのExcelファイルでご覧ください。ただし、教室で配布しているものの一部を削除した一覧です。 裏には、この前紹介した上田紀行著岩波新書『生きる意味』の抜粋を載せました。時間があったら読んで下さい。
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■ 希望を歌う仲間が欲しい まもなく愛知県で「愛、地球博」という万博が始まります。僕が生まれた町から万博会場までは車で30分ほどなのですが、「今時何が万博やねん」と醒めた気分でTVCMを見ていた時、昔懐かしい歌『若者たち』が流れてきました。この曲が発表されたのは1966年。僕が8歳の時でした。そして、翌1967年にはザ・ピーナッツが歌った『銀色の道』が世に出ました。 僕が通った中学校の生徒手帳には校歌と共に、この二曲の歌詞が載っていたのです。どちらも重たいメロディーの曲ですが、曲の終わりには未来への希望が込められています。
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■ 就職、結婚、出産、育児、老人介護、そして 先週の土曜、講堂で行なわれた「涅槃会(ねはんえ)」に参加した人が何人かいました。僕は仏教徒ではありませんが、公立高校に通っていては触れにくい宗教に親しむ機会は貴重だと思います。そして信心の有無は別にして、日本の文化や精神の基礎になっている宗教行事に参加して何かを学ぼうとする自発性はとても素敵なことだと思います。 さて、お釈迦さんが80歳で亡くなったのは紀元前383年2月15日だと伝えられていますが、その時お釈迦さんの脇に立っていた沙羅(さら)の木が白い花を咲かせたといいます。日本のお寺などではナツツバキが沙羅の木として植えられており、僕もナツツバキがインドに生えているものとばかり思っていました。しかし、先日の京都新聞の記事によれば、インドの沙羅はそれとは全く別の木だそうで、そのインド原産の沙羅が滋賀県草津市立水生植物公園みずの森の温室にあり、ちょうど今、花を咲かせているとのこと。涅槃(ニルヴァーナ)とは、煩悩(欲望や心の迷い)の火が吹き消された状態=悟りの状態です。試験勉強の焦りを払い疲れを癒しに、フラッと見に行くのもいいかもしれませんね。 お釈迦さんが生まれた紀元前463年4月8日に咲いたのが無憂華(アショーカ)。その花を採ろうとした摩耶の右脇腹からお釈迦さんが生まれた記念日が「花祭」。そして紀元前428年12月8日、スジャーターという名の娘が捧げた乳粥を飲み、菩提樹(ぼだいじゅ)の下で座禅をして悟りを開いた記念日が「成道会(じょうどうえ)」。人生の大きな節目に様々な花が咲く。それは生も死も大きな自然の営みの一つにすぎないことを示しているようです。
■ 女の前に立ち塞がる伝統と習慣 その4 Kさんとメールをやり取りしていて、こうした事実や思いがあることを君にも知って欲しい思いました。そこでKさんにお願いすると、「転載してくださって、まったくかまいません!しかしあまりにも、前のメールにマイナス面のみ≠書きすぎたとおもいました。(しかし、本当に自分の身に起きた事です。)結果、若い女性達のチャレンジ精神をごっそり削ぎかねないと、危機感を感じました」ということで、追加のメールを頂きました。今回はその一部を紹介します。
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■ 就職、結婚、出産、育児、老人介護、そして 「選んだ道をどう歩いていくのか―歩き方を互いに学ぶためのアンケート」の回答集そのAを裏に紹介しました。(省略)並んでいる順番は、前回と同じです。
■ 女の前に立ち塞がる伝統と習慣 その3 Kさんからの最初のメールには、「女人禁制は正しい、と主張する者達は、女人禁制を受けた女性の気持ち・人権などに、まったく触れることはありません。伝統文化とは、人々がその時代の価値観に合わせ、変革し、受け継いでいくものだというのに…いつから、『絶対変えてはいけないもの』になってしまったのでしょうか。同じ女性達が、女人禁制を良しとして受け入れてしまっている傾向は悲しいです。」といった女性差別全般にかかわる思いも綴られていました。会社を辞めたKさんの「その後を教えていただけないでしょうか」とお願いしたところ、丁寧な返信を頂きました。
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■ 安楽を批判し既成概念と闘ったラムネ氏=坂口安吾 今日の学級読書会を終えて、今君の心に何が残っているでしょう。作品(にせよ一人の人間にせよ)の欠点をあげつらうことは簡単です。「つまらない」の一言で切って捨てることさえできるからです。それに対し、そのものの面白さや魅力を語るには、好奇心やセンスと共に努力や寛容さが必要です。そして自分の固定観念を自分で打ち破ることのできる頭の柔らかさと新しいものを試してみようとするチョットした勇気が求められます。 今日読んだ『肝臓先生』の著者坂口安吾は、個々人の固定観念や社会を閉塞させる既成の秩序を打ち破ることを重視した無頼派の作家です。『肝臓先生』の中の一節「肝臓医者とさげすみを受けることこそ、先生の栄光であることを、彼女はもっともよく知っていたのだ。先駆者の悲劇である。また予言者の宿命でもある。真理を知るものは常に弧絶して、イバラの道を歩かねばならないのだ。」(角川文庫P238)といった言葉にもそれは良く表れています。今日、おまけで配った坂口安吾のエッセイ『ラムネ氏のこと』(ちくま文庫 坂口安吾全集14)の中の「私のように恐れて食わぬ者の中には決してラムネ氏がひそんでいない」「愛に邪悪しかなかった時代に人間の文学がなかったのは当然だ。勧善懲悪という公式から人間が現われてくるはずがない」という言葉=思想に触れることができるのも、本を読む値打ちだと思います。 ■ 憂いをなくし安らぎを求めた九条武子 もし君が、『肝臓先生』の作中の「九条武子の建設した『あそか病院』」(P226)に目が留まったとしたら、かなりの京女通です。この本がHR文庫に選ばれているのは、坂口安吾の批判精神によるのではなく、京女にゆかりの深い九条武子が登場するからかもしれません。「あそか病院」は実在の病院で、ホームページもあります。その一部を紹介しておきましょう。
■ 女の前に立ち塞がる伝統と習慣 その2 前回紹介したKさんからのメールは土木会社の研修現場で『女人禁制の因習』によって工事現場のトンネルに入れず、自分だけトンネルの入口に取り残されたショックが書かれていました。
■ ヒップが上がると運まで上がる |
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■ フロンティア・スピリッツの光と影 映画『きみに読む物語』(原題THE NOTEBOOK)を観ました。よくできたアメリカ製純愛ファンタジーでした。「人間の一途な愛と信念が奇跡を生み、あきらめずに立ち向かう努力によって未来は開ける」といったメッセージに貫かれた映画だったということです。それを人生の教訓として重く受け止めるか、おとぎ話として楽しむかは、見る人の人生観によるでしょう。僕はハッピーエンドのラストシーンより、その5分ほど前の胸に突き刺さる辛いシーンが心に残りました。そして、青年が娘に放った「99%二人はうまくいいかないかもしれないけれど、僕は努力したいんだ」というプロポーズの言葉が素敵でした。貧乏人の男と金持ちのお嬢さんが一軒の「家」を接点に結ばれていくストーリーから、映画『遥かなる大地へ』(ロン・ハワード監督1992年)を思い出しました。 映画『遥かなる大地へ』(原題Far And Away)はアメリカの歴史に興味がある人にはお薦めのスペクタクル映画です。結婚したばかりのトム・クルーズとニコール・キッドマンが夫婦(後に離婚)で共演したことで話題になりましたが、そんなことより、ここに描かれたアメリカの歴史というか単純素朴なフロンティア・スピリッツ(開拓者魂)が感動的。貧乏で未来のないアイルランド人が裸一貫で新大陸に渡り、自由と財産を手に入れるサクセス・ストーリーのラストシーン、美しい小川の流れる草原に小旗を掲げて立つ若者の姿はストレートに胸を打ちます。 それは、同じく土地に執着するアイルランド移民の娘が主人公となった戦前(1939年)の映画『風と共に去りぬ』(原題Gone with the Wind)で、ヴィヴィアン・リ―(彼女もまたアイルランド人)演ずるスカーレット・オハラが這いつくばった大地から立ちあがる有名なシーンと重なります。 ただ、こうしたアイルランド移民が貧乏のどん底から這い上がって手に入れた土地の多くは、アメリカ先住民(インディアン)から白人が奪い取った土地です。それを思うと新たな世界を切り開くことを賛美するアメリカ魂は、他者の生活と人生を奪う危険性と背中合わせであることがわかります。アフガニスタンやイラクでのアメリカの軍事行動を支持するアメリカ人の意識が何に支えられているのかを、こうした映画から読み取ってみてはどうでしょう。 ■ あこがれに見る自分の価値観・人生観 先週のHRでは「選んだ道をどう歩いて行くのか―歩き方を互いに学ぶためのアンケート」に取り組んでもらいました。個々の回答そのものも興味深いものがありますが、43人の回答を並べてみた時、そこからいろんなことが読み取れて大変勉強になりました。そこで、これから何枚かの手紙で、その結果を紹介していきます。慣れ親しんだ6組の人々が、どんな思いや考えを抱きながら暮しているのか、何を夢見てどうなりたいと思っているのか。それを知ることは、君が君の道を歩いていく上でおおいに刺激になり、視野を広げるチャンスになるはずです。 その第1回として紹介(省略)するのは、 問の(2)「自分が尊敬している人、あるいは目標にしている人は誰ですか?(どんな人ですか)」と 問の(3)「自分が母親と同じ年頃になった時、何をしてどんな生活をしていたいですか?」 の回答です。何かの傾向が読み取れるかなと思って、進路希望で第一希望で京女大・短大の推薦を希望した人→他私学の推薦を希望している人→第2希望で京女大や他私学の推薦を希望している人のヨウな順で一覧表にしました。問2と問3は横に並んで居るのは同じ人の回答です。(省略) 「尊敬する人」に親や姉妹やコーチや先輩など身近な人を挙げた人は、今とても幸せな生活を送っているのだなあとうらやましくも思いました。ただそれにどっぷり浸かって居座ってしまうのではなく、自分の生活の中にはない異質なものや思いも付かない何かとたくさん出会って多くの刺激を受け、新しい世界に飛び立っていくのもいいかもしれませんね。 「母親と同じ年頃」に専業主婦になっていたいという人が思いのほか多くて意外でした。いま世の中は大きな変化の渦の最中にあります。その渦の中で、自分が一人の人間としてどんな力を身に付け何を磨いていくべきかを、日々の生活の中で見つけて行けるといいですね。愛する人と家庭を持ち、産んだ子どもを健やかに育てていく上で、最も大きな障害となるのは戦争です。家族を大切にしたい人ほど、社会に対して鋭い目を持ち、声を上げる口と立ち上がる脚を鍛えなければならないのだと思います。 ■ 女の前に立ちはだかる伝統と習慣 その1 僕が管理しているささやかなホームページは、日に30〜40ほどカウンターが回ります。そして週に1〜2人の見知らぬ方がいろんな立場でメールを送ってきてくれます。そんな中、一人の女性(仮称Kさん)から次のような書き出しのメールをもらいました。君の人生や進路を考える大切なヒントになると思い、送り主のKさんに了解を得て編集し、何回かに分けてこの『手紙』に転載させてもらうことにしました。本文は次回以降となります。お楽しみに。
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■ 並んだ杭でいるのか、一本の棒として生きるのか 少し前、世界史担当の神村先生から聞きました。1年6組では『歴史をさわがせた女たち 海外篇』(文春文庫)のうち一番人気が高かったのはジャンヌ・ダルクだったとのこと。へえ〜と思って、僕もその本(とついでに『日本篇』と『新・歴史をさわがした女たち』の三冊)を買って読みました。 イエスの十二人の弟子の一人であるヨハネの名を付けられたジャンヌ(女性形Jeanne)は13歳(今なら中学1年生)で神の声を聞き、17歳(高校2年生)で祖国フランスを救うことを決意して闘い、19歳(大学1年生)で火あぶりの刑で殺されます。もし彼女が宗教裁判で神の声を聞いたことを否定し、教会の言うことに従えば処刑されずに済んだかもしれません。しかし彼女は「自分は神の言葉のみに従います」と信念を曲げなかったために異端者、悪魔の手先として処刑されたことは、君もすでに知っている通りです。そんな彼女を主人公にしたリュック・ベッソン監督の映画『ジャンヌダルク』(1999制作)のキャッチコピーは「逃げない」でした。 自分の信じることに忠実でいようとする人は、世の中を支配しようとする権力者にとって目障りな存在となり、多くは迫害を受けます。そうならないで平穏な生活を手に入れたほうがよいと思う人も出てきますから、「寄らば大樹の陰」だの「長いものには巻かれろ」だの「出る杭(くい)は打たれる」だのといったことわざが世間にあふれています。 その「出る杭は打たれる」の続きを「出過ぎた杭は打たれない」と言う人もいれば、「出過ぎた杭は引っこ抜かれる」と言う人もいます。君はどっちに共感する?ぼくは「抜けた杭は自由である」とでも続けてみてはどうかと思うのですがどうでしょう。 自分がそこに杭として踏ん張っていることの意味は何か?子どもが池に落ちないように守る柵の杭ならば並んで立つのもいいけれど、強制収容所の鉄条網を支え人を閉じ込めるために並んでいる杭ならば、杭で居続けることを拒否したい。引っこ抜かれて捨てられることを恐れるよりも、盲人を導き、梃子(てこ)となって岩を動かし、棍棒となって闘う一本の棒になることを夢みたい。そう思う人は、声には出さないけれど、いつの時代にも居るものです。 そう考えると現代文の授業でやっている安部公房の戯曲『棒になった男』の読み方も変わってくるとは思いませんか? ■ 愛は勇気によって守られる さて来週月曜の2月14日は聖バレンタインデー。日本では女の子がチョコレートを配る日になっていますが、その日の由来となったバレンタイン(バレンティヌス)もまた、迫害によって処刑されたことを知っていますか?そのいきさつがf-anecsというホームページに分かりやすく説明されていたので、その一部を次に転載させてもらいました。
風邪やインフルエンザでへたばっている人は、バレンタインデーどころではないかもしれませんが、しんどい時こそ人との温かなかかわりを作っていきたいものです。世間にはチョコだのプレゼントだのを配ることに眉をひそめる向きもあります。
さて、明日の午後から日曜の晩まで休祭日と入試で授業なし。君はどのように過ごしますか?僕はニック・カサヴェテス監督の映画『きみに読む物語』(原題「THE NOTEBOOK」)を観に行くつもりです。アメリカの純愛映画のできや如何に!? |
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■ 本当は、女が暮しやすい社会は男も暮しやすい社会のはず 1年2組の2月4日付学級通信「ナチュラル」に、先週の仏参でK先生がされた「お話」に対するF先生(2組の担任)のコメントが書かれていました。なるほどね、と思うところがあったので、F先生の了解を得て下に転載させてもらいます。
それとちょうど昨日の朝日新聞に右のような記事がありました。合わせて読んで見て下さい。 「妻は家庭」反対48% 賛成派を初逆転 内閣府調査 現実は仕事より優先多く ■ 女として生きぬくたくましさを 昨日のパン・パシフィックテニスのテレビ中継を見ましたか?女子プロテニス世界ランキング1位のダベンポートに競り勝ったシャラポアの粘りと気迫は男子の試合にまさるとも劣らぬすごいものでした。で、それで思い起こしたのは、ウィンブルドンなどの世界四大大会の賞金が男女では随分と差があるということです。その理由をあれこれ並べる人はいますが、結局は男と女が同列なのが気に食わないという思いがベースにあるようです。 家庭の中でも、そうした男尊女卑の思想にとらわれている人が男女を問わずいます。それでその家庭が円満だと言うのなら、他人がとやかく言うことはないでしょうが、これから社会に出て、自分の家庭を持とうとしている君には、少しだけ考えておいてほしいことがあります。それは、結婚した相手がDV(ドメスティック・バイオレンス=家庭内暴力)をふるうような人であったり、ギャンブルなどで経済的な破綻を招いたり、埋めきれない考え方や感覚のギャップ(性格や性の不一致)がはっきりしたとき、場合によっては離婚によって互いに新しい生活を作り直すことが必要な場合もあるということです。下のグラフを見て下さい。 平成16年人口動態統計の年間推計 図4離婚件数及び離婚率の年次推移 (厚生労働省大臣官房統計情報部) http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suikei04/index.html グラフが急な右肩上がり(増加)を示しているのと同時に山と谷があることに気付くでしょう。世の中が不景気になって仕事を見つけにくくなると、離婚をためらう女性が増えるという分析もあります。自分が仕事(収入を得る手段)を持っていなければ、新しい生活をスタートさせることも難しいのです。そして資格を持っていればすぐに仕事が見つかるというものでもありません。 一人の人間が人間として尊重されると言うことはどういうことか、そして女として誇りを持っていきるためには何が必要か。いろんな人の言葉を聞き、本を読み、考えていって下さい。 |
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■ 次年度高2類型コース選択確定 2ヵ月後にはもう、君は1年6組の生徒ではなく、(たぶん)2年のどこかのクラスのメンバーになっています。今週確定したコース選択によって、6組43名は右のように分かれていくことになりました。(省略)学年全体では次のようになりました。(省略) 誰がAB混合コースに入るのかは、選択科目選択の調整がこれから行なわれて決まりますが、君がそれを知るのは4月になってからです。どのクラスになるにせよ、自分の目標を達成するのに必要なことを、めげず怠けずコツコツやり続けて下さい。 高校1年の終わりになれば、学校の勉強の出来不出来が特殊な才能によるのでも、チョットした要領やコツによるのでもなく、「今日の復習、明日の予習、明後日の小テストの準備」の繰り返しに耐えられる気力と体力が勝負を分けるということが、君にも分かってきているでしょう。もちろん、掛けた時間に対して得られる成果は人によって違います。「成果=持っている力×掛けた時間×天の神様の気まぐれ」だと思います。自分が「エネルギー効率の悪い人間」だと思うのなら、自分に鞭打ちたくさんの労力や時間を掛けるか、寺社仏閣でお百度参りするかです。 でもね、ここでいつも忘れてならないのは、自分を見失わないこと。でも自分が「ホントにやりたいこと」など簡単に見つかるわけはなく、「ホントの私」は今ここにいる私以外にはいないのです。だからこそ、ああせいコウセイまだできひんのか!という声に押され流され、わけ分からぬまま走り続けた先が戦場だったり墓場だったり地獄の淵だったりすることはよくある話。そうならないためには、まず「自分」が今どこに立ち、どこに向って何を見ているのかを確かめること。1日4回、朝起きて歯磨きする時、朝礼で挨拶する時、終礼で挨拶する時、夜ゆったりとお風呂につかった時、「さあ今から私は…」「さて今の私は…」と思う時間を持ちましょう。 ■ 現実は一つじゃないのが現実です とはいっても、人生そんなに思ったとおりに進むわけがありません。今日は久しぶりの積雪で仏参に間に合わなかった人が結構いました。僕も朝目を覚ましてカーテンを開けてびっくり。いつもは6:00起床→風呂を沸かす→朝食を作る→庭のエサカゴに野鳥用のミカンとヒマワリの種を入れる→パソコンのメールをチェック→朝食を食べる→風呂に入る→着替えて出発7:30といった生活をしていますが、今日はスタートからつまずきました。 昨日は夜更かししたので目覚ましを寝ぼけて切ってしまい、意識を取り戻したのが7:00。おまけに、目を覚ましたら右のあごがパンパン。昨日治療していた歯がとうとうだめになって抜歯したのですが、歯の根が折れていてうまく抜けず、抜けた穴が大きくて出血が止まらず、歯茎を縫うはめになった結果です。野鳥のエサだけ用意して朝食も風呂もなしで急いで出発。道に出てみるととても車では行けそうにないので、JRの駅に急ぎ、なんとか8:15に到着しました。 そんな朝の講堂でK先生が語られた「お話」はとても興味深いものでした。
さてそこで、考えてみたいのは、男と女が様々な点で違いがあることを前提にした上で、なぜ料理は女の仕事になるのかということです。なぜ、家事を省みない女は責められるのに、100%仕事に熱中している男は家庭の幸福を手に入れられるのかということです。 僕は今朝、朝食を作れませんでしたが、いつもはご飯を炊いて味噌汁と目玉焼き程度の一品をおかずに作っています。僕が無理なときは、「がんこ寿司」でバイトをしている下の息子が作ります。で、皿洗いは毎回上の息子の仕事です。それは妻が入院していたときからそうでした。妻が元気な時も夕食は先に家に帰った方が作っていて、妻が生徒会担当の仕事をしていた年は、平日のほとんどを僕が夕食を作っていました。そして、休日はその日の気分でイズミヤ、ダイエー、アルプラザ、イトーヨーカドー、ジャスコetc.と二人か家族でドライブがてら一週間分の買い物をしていました。 妻が癌で、あと6ヵ月しか生きられそうにないと最初の病院で言われ、妻の入院用の浴衣を買いに六地蔵のイズミヤに行った時、僕の胸に込み上げたのは「もう二度と二人で買い物カートを押すことはないんだ」という思いでした。 現実は色々あります。だから自分の理想や夢を大切にし、自分が共に暮していきたい人と出会い、共に支え合っていける力をこそ付けてもらいたい。 一人でも生きていける。でも一緒に暮した方が楽しいから一緒にいる。そんな関係っていいとは思いませんか? |
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つづく | ||
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■ 無頼派のデカダンスに共感できるかな さて今日から冬の読書期間の始まりです。君も2月16日のHR読書会にむけて、一冊の本を読むことになりました。1年6組が選んだ本は坂口安吾の『肝臓先生』(角川文庫クラシック)でした。僕はこの角川文庫を手に取ったのは昨日がはじめてでしたが、目次を開いてまずあれっ?これって短編集じゃありませんか。収められた五つの作品の最後が「肝臓先生」。坂口安吾の作品は、あまり馴染みがなくどれも読んだことのない作品だったので、とにかく一つ目から読み始めて、一冊全部3時間半で一気に(居眠りしつつ)読み切りました。で、何が面白かったかというと、6組がこの本を読書会用に選んだいきさつと、この本の内容とのギャップです。 一昨日の終礼で、候補にあげられた上位2冊の本はこの坂口安吾の『肝臓先生』と山田詠美の『放課後の音符』でした。どちらを選ぶかを決める際に、図書委員さんがホームルーム文庫目録の紹介文を読み上げてくれました。すると、『肝臓先生』の紹介文は要するに戦時中に肝炎の研究と治療に走りまわった医者の話ということでしたが、『放課後の音符』の紹介文は「『カナは十七歳だけど、もう男の人とベッドに入ることを日常にしている。彼女の話を聞いていると、色々な男の人が登場して来て、それだけでも驚きなのに、その人たちが彼女と普通にベッドに入るので、もっとびっくりしてしまう。』放課後に音符を奏でる様に様々な愛と性の姿をさらりとした口語で心の奥を奏でていく」というものでした。 その二つの紹介文を聞いて多数決を取ったら圧倒的多数で『肝臓先生』に決まったわけですが、それは多分、「愛はいいけど性はちょっと」といった引いた気分の結果だったのではないかと思われます。ところがなんと!君が読むことになった短編集『肝臓先生』は『放課後の音符』とは比べようもないほど頽廃的かつ反社会的な作品の塊だったわけ。 一番目の「魔の退屈」は戦時中が舞台で、「女は魂には心棒がなく、希望がなく、ただ一瞬の快楽以外に何も考えていないだらしなさだった。何のハリアイも持っていなかった。そしてただ快楽のままに崩れて行く肉体だけがあった」(P23)という話。 二番目の「私は海をだきしめていたい」は「この女は娼婦の生活のために、不感症であった。肉体の感動というものがないのである。肉体の感動を知らない女が、肉体的に遊ばずにいられぬというのが、私には分からなかった。精神的に遊ばずにいられぬというなら、話は大いに分る。ところが、この女の浮気というのは、不感症の肉体をオモチャにするだけのことなのである」(P32)という話。 三番目の「ジロリの女」が最も長い話で、主人公はインチキ新聞とエロ雑誌を発行している出版社の社長。一つ年下の芸者と病院の院長の未亡人と自分の会社の家庭持ちOLに言い寄って、三人同時に深い関係になったあげく、病院長の娘を誘拐して犯してしまうという話。 四番目の「行雲流水」の主人公は、「ソノ子はまだ十八。普通なら、まだ女学生に過ぎない発達途上の小娘であった。その姿態にはまだ未成熟なものが多く翳を残しており、お乳とお尻がにわかにムッチリと精気をこめて張りかがやいているようであった」(P173)という売春婦の少女。言い寄ってきた男と心中しようと線路に抱き合って二人で寝るが、首が飛んで死んだのは男だけだったという結末。 そして五番目が「肝臓先生」。太宰治とともに「無頼(ぶらい)派」(社会の常識や制度に反抗するような姿勢を持った連中)の作家である坂口安吾の特徴は、軍部や社会の常識と闘うという点に出てはいますが、主人公がちょっとカッコ良すぎて一番坂口安吾らしくない作品です。 さてさて、君はどの話に興味を持って、読書会ではどんな議論をしていくのでしょうか。その行方が楽しみです。
この評論集では、他にもいろいろな映画や小説が生死を考える素材として示されていましたが、その一つ映画『ジョニーは戦場に行った』は、君にも若いうちに是非見てほしい作品です。30年ほど前の映画ですが、戦場で砲撃に会い、両手両足とあごを失い動くことも話すことも出来ず、医者からは医師や感情はないと診断され、ただ研究用に病院の奥深くで生かされ続ける青年の物語です。看護婦さんのある行為と、ラストシーンで青年が訴えるある願いが心底胸を打ちます。 さてさてさて、君は君の死なないでいる理由を答えられるでしょうか? |
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■ しなやかでたくましい女のカッコ良さ 今日は類型コース科目選択カードの提出〆切でした。迷った末に予備調査とは違う答えを出した人も少なからずいます。ただ、迷いに迷った人も、あっさり決断した人も、やるべきことは二つです。一つは夢を実現する力をつけること。そしてもう一つは夢を持ち続ける力をつけることです。 自分の生き方に迷いを感じたとき、君はそこからどうやって抜け出そうとしますか?その時一番大切なのは自分向き合う孤独な時間をしっかり持つことだと思います。そして多様な人の生き方を知り、力強い生き方をしている人から生きるパワーを分けてもらうことだと思います。ただ、仲の良い友達や身近な家族との関わりからそうしたパワーをもらえない時は、本と映画にすがってみるのもよいかもしれません。 そんな君へのお薦めの映画が今上映中の『北の零年』と『火火』です。 『北の零年』は淡路島から北海道の静内に移民として渡った武士と百姓の実話を元にした映画です。「自分たちの国を作る」と理想に燃えて海を渡った男達は、厳しい自然と逆境の中で次々へこたれ挫折します。それに対し女達はどこまでも強くたくましく生きぬいていきます。この映画でつくづく感じたのは、男のもろさ情けなさと女の強さしたたかさです。「夢を持ち続ける力を失わなければ、きっと何かが私達を救ってくださる」という吉永小百合の台詞が胸に残りました。 ただ、一番胸にズドンと来たのは、同じく北海道を舞台にして5年前にヒットした映画「鉄道員(ぽっぽや)」の高倉健の渋さと対照的な吉永小百合の異様なまでの美しさでした。60歳でスクリーンいっぱいのアップに耐えられるあの美しさはどこから来るのか! その不思議に触れるだけでも見る価値のある映画だと思います。 それに対して『火火』の主人公の生のエネルギーと、それを演ずる田中裕子の凄みには心底圧倒されました。僕がこれまで見た邦画のなかでもベスト3にいれてもいいと思える出来でした。
ただ胸に熱いものが込み上げて切なくなって涙が止まらなくなったのは、釜の中で火にくるまれて焼かれる二つの壷の映像でした。映画の中ではその壷が何なのかは説明されていませんが、誰でもそれが何かわかります。僕にはそれが三つではなく、二つだったのが何とも切なかった。なぜ彼女は壷を三つ焼かなかったのか、三つ焼かないことでどれほどあの子が傷つくか!と、それが息子の死の悲しみ以上に胸を塞ぎ涙を誘いました。 映画館(浜大津アーカス)のロビーに置いてあった骨髄バンクの紹介パンフを読むと、東山七条の三十三間堂の隣りにある日赤血液センターでも骨髄バンク登録の受け付けができることを知りました。かつて夏目雅子のポスターをみて登録しようとおもいながら踏みきれずにいたドナー登録ですが、来週登録しに行くつもりです。
・ フィリピンのスモーキーマウンテン(ゴミの山)で出会った少女は『あなたの夢はなんですか?』と聞いた私ににこにこと明るい笑顔を浮かべながら答えました。『私の夢は大人になるまで生きることです』エピローグを裏に転載します。君が夢を持ちたくましく生きて行く手掛かりになれば幸いです。 |
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つづく | ||||
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■別れはいつもやってくる 今日『類型コース科目選択カード』と提出したのは10人でした。残りの33人は、どこでどう迷っているのでしょうか。今回の選択は、君にとって結構大きな分かれ道になるはずです。大切なのは、友達の選択に引きずられたり、噂に振りまわされたりせず、自分自身をしっかり見つめることです。そして、自分の決断を生かすための努力を一つ一つ積み重ねていくことです。 君の人生の進路をめぐって、これからいくつもの選択の場面がくるはずです。すぐ思い浮かぶのは進学・就職・結婚ですが、それ以上の重みで君の目の前にせまってくるのが退学・転職・離婚の選択です。 人は一人で生きては行けません。支え合って生きて行けるパートナーを求めるものです。そして結婚と言う制度に乗るかどうかは別にして、この人と生活を共にしたいと願う相手とめぐり合うこともあるでしょう。好きな人と一緒になるのに迷うことなどありません。思い切って飛び込んでいく若さがあれば大丈夫。大変なのは、経験も習慣も、時には価値観も微妙に違う人と一緒に暮らしていくことです。そしていくら噛み合わないところがあるからといっても、いったん一緒に暮らした人と別れるには余程の決意がいるでしょう。 今朝のテレビのニュースは、母子家庭世帯がこの5年間で30%増え、戦争による死別を除いて初めて100万世帯の大台を超えたと報じていました。次に紹介したのはそれを報じた朝日新聞Web News (http://www.asahi.com/national/update/0119/037.html 2005/01/19 21:38)の記事紹介です。
一人で生きて行く力を付けることも大切ですが、本当は二人で生きて行く難しさを乗り越える力を身に付けることの方が重要なのです。そして一緒に暮すことでしか分からなかったあれこれで、二人は別れるべきだと判断したとき、あるいは死別のようにやむを得ず別れざるを得なくなったとき、新たな一歩を(ときには子どもを抱えて)踏み出し生きていけるだけの力をどう身に付けるのか。これからの社会を生きる君に問われているのはそういうことかもしれません。 ■ 器用に生きようとしなくてもいい 「私は不器用なのでいろんなことができないし、今までと違ったことをするのも難しいんです」と自分を否定的に評価する声を聞くことがあります。ではいろんなことに手を出し変化にうまく適応している「器用な人たち」は、その器用さほどに豊かで幸せな人生を歩んでいるのでしょうか?ひょっとすると、その人たちはその人たちで「人が誉めてくれるほど自分は満足できていないし、何をやっても自分が本当に求めているものと何か違う」と不満や渇きを感じているかもしれません。
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つづく | |||
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