死の詩の部屋へもどる |
さびしさを歌ふ己をにくみつつ 夜のいのちを愛(いと)ほしみけり この今の罪犯さなくてすむ一日の 生命(いのち)愛(かな)しみ幸福(しあわせ)なりき 一日のいのちの幸とシャツ脱ぎて たためるときに匂ひて愛(かな)し 処刑多く行ふべきと云ふを聞き 悔い生かさるるひと日を愛(を)しむ 童貞の身のさびしさにこほろぎの澄むこゑ愛(かな)し 寝返り打てば この澄めるこころ在るとは識らず来て 刑死の明日に迫る夜温(ぬく)し 処刑前夜に書かれた「『あとがき』に添えて」より この澄めるこころ在るとは識らず来て刑死の明日に迫る夜温(ぬく)し。処刑前夜である。 人間として極めて愚かな一生が明日の朝にはお詫びしとして終わるので、もの哀しいはずなのに、夜気が温いと感じ得る心となっていて、うれしいと思う。(中略) 知恵のおくれた病弱の少年が、凶悪犯罪を理性のない心のまま犯し、その報いとしての処刑が決まり、寂しい日日に児童図画を見ることによって心を童心に還らせたい、もう一度幼児の心に還りたいと願い、旧師の吉田好道先生に図画を送ってくださる様にお願いしました。 その返書と一緒に絢子夫人の短歌三首が同封されてありわたしの作歌の道しるべとなってくれました。(中略) これは本当は生きている内に掌にするものと思っていた歌集なのですが、処刑は急に来るものなので、本来の通り死後出版となります。この歌集の歌の一首でも心に沁むものがあれば僕はうれしいです。 「 東京美術選書6 島秋人『遺愛集』」東京美術より 島秋人。1934年6月28日満州生まれ。 戦後新潟県に引き上げるが、母はまもなく結核で死亡。 本人も病弱で結核カリエスとなり、学校の成績も一番下だった。 周りから疎んじられ、生活もすさんで転落。少年院にも入る。 1959年、飢えに耐え兼ね農家に押し入り、2000円を奪って家人を殺害。 死刑囚となった後、中学時代たった一度だけ絵を褒めてくれた先生に手紙を出す。 それがきっかけとなり短歌創作を始める。 1961年より毎日新聞の歌壇に投稿開始。 1967年、小菅刑務所で死刑執行。33歳。 ページのはじめに戻る |