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死の詩の部屋へもどる




      レモン哀歌


そんなにもあなたはレモンを待ってゐた

かなしく白くあかるい死の床で

わたしの手からとった一つのレモンを

あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ

トパアズいろの香気が立つ

その数滴の天のものなるレモンの汁は

ぱつとあなたの意識を正常にした

あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ

わたしの手を握るあなたの力の健康さよ

あなたの咽喉に嵐はあるが

かういふ命の瀬戸ぎはに

智恵子はもとの智恵子となり

生涯の愛を一瞬にかたむけた

それからひと時

昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして

あなたの機関はそれなり止まった

写真の前に挿した桜の花かげに

すずしく光るレモンを今日も置かう





      梅 酒


死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は

十年の重みにどんより澱(よど)んで光を葆(つつ)み、

いま琥珀(こはく)の杯に凝つて玉のやうだ。

ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、

これをあがつてくださいと、

おのれの死後に遺していつた人を思ふ。

おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、

もうぢき駄目になると思ふ悲に

智恵子は身のまはりの始末をした。

七年の狂気は死んで終つた。

厨(くりや)に見つけたこの梅酒の芳(かお)りある甘さを

わたしはしづかにしづかに味はふ。

狂瀾怒涛(きょうらんどとう)の世界の叫も

この一瞬を犯しがたい。

あはれな一個の生命を正視する時、

世界はただこれを遠巻きにする。

夜風も絶えた。





  「日本詩人全集9 高村光太郎/『智恵子抄』」新潮社より

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