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考えるヒントのお蔵  性と人権の棚  第1番
女性が性的な快楽を求めるのは、はしたないこと?

「男はすぐ「タマル」から、出さなきゃやってられない。女は、いつも密かに男にもてあそばれる事を求めている。」というのが、伝統的なポルノ小説の前提ではないでしょうか。

その一方で、未だに「処女膜信仰」にとりつかれているおじさん達もいます。そこには、女は男の所有物、女は男の言う事を聞くもの、男は女を喜ばせてやるものだと言う、歪んだ思い込みがあるのかもしれません。

女性に対して一方的に「貞淑」を求める文化は、多くの場合宗教的な意識や習俗が絡んでいて、とても問題を複雑にしています。キリスト教や仏教の世界でも、男性の同性愛は公然の秘密になっていましたが、女性の同性愛は、その存在すら認めがたいものとされてきた歴史もあります。

今でも、一部の「文化」では、「女子割礼」(女性の性感帯であるクリトリスをナイフで切除してしまうもの)がまかり通っていますし、女性の性器縫合(夫が旅に出る時、女性の性器を糸で縫いあわせてしまい、帰ってきたらまたほどく)が、異様な事ではなかった「文化」もあります。

今でこそ、特別な趣味の人のコレクションかもしれませんが、「貞操帯」が貴婦人の必需品ともされていました。

また、男性は、その構造上、毎日数度は自分の生殖器を見たり、直接手で触ったりしますが、女性の場合、生殖器に触れる事や鏡に写して眺める(それ専用の道具もあります)事が恥ずかしい行為とされてきました。

アダルトショップには、男性が一人で楽しむか、女性を楽しませるための道具が所狭しと並んでいても、女性自身が楽しむための道具は少ないようです。(米朝の艶笑落語の中には、「張り子」を買いに来た奥様が、店先で試用すると言う噺がありますので、昔からそれなりの筋では売られてきたのでしょうが)

女性は男性に従順に奉仕すべき存在でもないし、男性は女性を喜ばせなければならないと言った「強迫観念」にとらわれる必要もない。快楽としての性は、互いのコミュニケーションの一つであるし、日記が密かな慰めであるのと同様、一人のプライベートな楽しみの一つに性の快楽があっても構わない。

「快楽としての性」を認知し、「生殖としての性」からいったん離れてみる事は、人間らしさとは何かを考える一つの入り口に立つ事になるのかもしれません。

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