あるがままに・そのままに

—鬱陶しい亭主の場合—

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第556話 仏教ネイティブ

第556話 仏教ネイティブ
 
 慣れないうちは仏教はチンプンカンプンなものです。それがたとえ日本語で書いてあったとしてもわからないものです。
 たとえば「慧眼見真 能度彼岸」と書いてあるとします。読めますよ。漢字で書いてありますから。お経の中の一句ですから中国語ですけど。発音だってできますよ。中国語の発音は無理ですが日本語で良ければ。「えげんけんしん のうどひがん」です。
 書けます。読めます。発音できます。でも意味不明なのです。まるでパソコンの「ディレクトリにパスを通す」みたいなものです。言葉として読めます。発音もできます。けれど何が何やら見当もつきません。
 ディレクトリにパスを通す−−パソコンを使い始めたのは四半世紀ほど前のことです。最初はそれがまるでわかりませんで。苦労したものです。そしてそれがわかったときには目から鱗が落ちたようでした。それがわかればパソコンはわかるとまで感じさせられたものです。
 同様なことは法令用語にも言えます。「及び・並びに・又は・若しくは」みたいなものです。最近だと「直ちに○○ではない」なんて言い回しを多用した弁護士資格をお持ちの官房長官がおられましたが「直ちに・速やかに・遅滞なく」はそれぞれ意味するところが違います。法令用語としてはですよ。普段の生活の中で使われるときとは異質なものです。ですから法令用語は日本語であるにもかかわらずある場面においては我らにとってまさに外国語であると言えます。
 さて。仏教は外国語なのです。用いられる用語が言語としてインド由来・中国由来だとばかり言っているのではありません。その言わんとしているものは我らの常識の中にあらかじめ用意されているものではないという意味まで含めて外国語だと言っているのです。
 我らは仏教が外国語であることに気づきもせずに理解できるものだと頭から決め込んで仏教の周囲を人工衛星よろしくグルグルと周回しているに過ぎません。周囲を回るばかりでは決して仏教の核心に至ることはありません。周囲から核心に向かって跳ばねばならないのですが。
 ごく最近のことです。予備校のテレビコマーシャルの中でです。予備校の講師の先生でしょうか。「数式は言葉です。計算ではない」とおっしゃいまして。それを聞いたときにちょっとした衝撃が走りました。目から鱗というか耳から耳あかがゴッソリ落ちたというか。もしも高校1年生のときにその言葉を聞いていたら私はもっと数学を真摯に学んで理系に行ったかもしれません。
 「慧眼見真 能度彼岸」
 それが外国語としてではなくまさに自分の言葉として己の血肉となるならよろしゅうございます。そうなってこそ仏教が外国語ではなくなります。仏教のネイティブスピーカーですかね。仏教ネイティブ。そうなりたいものです。
 

2011/09/12

ついでに一言
 
 おお! なんだかとってもカッコイイことを書いたような気がします! オイラは凄いじゃないですか!
 


おまけにもう一言
 
 なんてね。私が書いているのではなくて如来が書いているのですけどね。