第462話 自覚がない
第462話 自覚がない
古代の経典に「サイの角のように独りで歩め」と説かれています。サイの角のようにとは現代風に言えば自立せよ・寄りかかるな・依存するなということになるかと思われます。
これは古代の出家に言われたことであるようです。ですから現代の在家が鵜呑みにする性質のものではないのかもしれません。それにしても何かに依存すればどうしてもその何かに縛られて窮屈な思いをするであろうことは理解できます。生きている者にとって依存がゼロになるとは思われません。しかし減らせるものなら減らすが大吉とは思われます。
とはいっても。依存はなかなか難しい問題です。なにしろ依存している真っ最中は依存している自覚がありませんから。がんじがらめに縛り上げられて支配されているにも関わらずその自覚がないですもんね。自覚がないどころかそれが大好きだから自発的にそうしているのだとさえ考え(させられ)てしまうものです。自覚がなければ致命傷になります。
身近なものだとタバコが典型です。私はタバコを吸わなくなって1年以上になりました。吸わなくなってようやく自分はニコチンに操られていたことを認めました。吸っていたときには依存という言葉をただ知っていただけです。風邪をひいて喉が痛くても吸いました。真冬に雪が降りしきる中でもタバコを買いに行きました。それは立派な病気なのです。ですが病気である自覚がないのです。そんなものです。
これはタバコばかりのことではありません。一事が万事です。皆様も身に覚えがあるはずです。
で。
そうなのだからといって何をどうしろと説教じみたことを言うのは詮無いことなのかもしれません。百人百様の事情があるはずです。私ごときでは想像もできないような本格派の依存にケツの毛までむしられて鼻血も出なくなっている人だっておられるはずです。そうなったらもう言葉など届かないだろうと思われます。
各人がそれぞれの道を七転八倒・四苦八苦しながら行くしかあるまいと。その果てに「眼」が開いて何もかも此岸に置き捨てて離れることができるならそこでようやくサイの角になれますね。
皆様がそれぞれの道をサイの角のように行けますように。仏縁に恵まれますように。
ついでに一言
やれやれ。綺麗ごとでまとめてしまいましたよ。
おまけにもう一言
これが今の私の限界です。