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—鬱陶しい亭主の場合—

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第440話 原始仏教と真宗とドーナツの深い関係

第440話 原始仏教と真宗とドーナツの深い関係
 
 トップページからリンクしている濁川さん。いつもお世話になっています。そのブログでダンマパダの連載が始まりました。先行して始まっていた蓮如さんの記事は申し訳ないですが今ひとつピンとこなかった亭主であります。しかし原始仏典のダンマパダとコンボになると俄然印象が違いますね。これは濁川さんの語り口の妙のおかげでしょうが真宗と原始の仏教とがキッチリとその核(中心・コア)を共有しているのがよくわかります。
 仏教の仏(佛)とは何か。それは言ってみれば人が人であることそのものに根ざしている仕組みであり働きです。ですからたとえ数千年の時を隔てていても人が人である限りは体得するものは同じなんですよね。
 もちろん紀元前500年のインド亜大陸で起こったものと極東の島国の鎌倉時代に起こったものとでは違いがあって当然です。ただしその違いとは仏教の核を包む梱包の仕方が異なっているという程度の意味です。愚かでスケベでケチな凡夫に仏教の核という微妙なものを手渡し届ける−−実に困難なものをハンドリングするためのパッケージが異なると言えばよいでしょうか。あるいはまたその核を食べてもらうための味付けや盛り付けの工夫が違うと言ってもよいでしょうか。
 で。仏教に興味を持っている人であってさえも実はその多くは仏教の核そのものにはまるで興味がないようです。核を包んでいるものの外観や味付けこそが仏教のすべてであると決め付けて疑わないようです。
 たとえば小綺麗な箱に入ったドーナツの詰め合わせをどなたかから頂戴したとしましょうか。その手渡された箱を開けて凡夫は思うのです。ドーナツといえばプレーンが良いかとかチョコレートでコーティングされているのが良いかとか。さてさてどれをいただきましょうかと。
 はてさて。見た目や味付けは実はどうでもよいのですけどね。どのドーナツを食べても同じなのです。それは凡夫にドーナツの中心を届けて食べてもらおうとして色々なドーナツの形で様々な味付けがされて小綺麗な箱に詰め合わされているのですよ。
 大切なのはドーナツの輪ではないのです。チョコに浸けてあろうが砂糖がまぶしてあろうがそんなものはどうでもよいのです。それらは凡夫の目を惹く工夫なのです。そうではなくてドーナツの中心をキッチリと食べることができるのかどうかです。それですよ。ドーナツの輪はドーナツの中心を明示するためにあることに是非とも気づいていただきたいものです。
 ということで。他人様の書いたものをネタにして一回分の話を稼いでしまいましたよ。このところ本格的にネタ切れを感じている亭主であります。困ったことです。
 

2010/05/15

ついでに一言
 
 ドーナツの話は亭主流のたとえ話です。皆様は皆様自身にピンとくる言葉で考え直してくださいね。
 


おまけにもう一言 
 
 実はクリームを詰め込んだ穴なしのドーナツが一番好きだったりします。