あるがままに・そのままに

—鬱陶しい亭主の場合—

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第418話 仏縁と言うしかないでしょ

第418話 仏縁と言うしかないでしょ
 
 煩悩即菩提という言葉があります。大乗仏教の極致であると言われます。第414話で引用した源信さんの『往生要集』の部分にも煩悩即菩提の文字が見えます。煩悩があればこそ仏道を歩むことができるのです。煩悩があるからこそ彼岸に渡ることができるのです。
 己の身体の状態をして煩わしく悩ましい様子であると自覚する能力がある。その自覚の能力があるから煩わしく悩ましいと苦悩するのです。そしてその自覚の能力があるから苦悩から離れるということも生じるのです。
 この煩悩即菩提。これを軽んじてはいけないのです。悩みがなければ悩みから解放されるはずがないのです。悩んでいない人が仏道を歩むのはすこぶる困難なことなのです。悩んでいないのであればそもそも何から解放されようとしているのかさえ不明であると思われます。
 悟りとやらにあこがれて大して悩んでいないのに修行さえすれば何者かになれると。その気持ちは分かるのです。でも修行さえすれば何者かになれると考えるのは見当違いな錯覚です。
 修行よりも先に必要なこと。それは自分は悩んでいるのだという自覚があることです。その自覚がないのなら苦悩から離れて彼岸に渡るということはあり得ないのです。自覚の能力こそがカギなのです。悩んでいることさえ十分に自覚できないようでは自覚を自覚するなんて無理です。
 悩むことができる。そのこと自体が盲亀の浮木であり優曇華の花です。実に有り難いことなのです。悩むことができるのは人間ならではのことです。決して忘れないようにしてください。
 ……なんてね。他人様の前で勇ましく格好つけて見せるのもたいがいにしろよですよね。
 自分で書いておいてアレですが。できることなら悩みなんかと無縁に生きていたいに決まっています。苦悩できるのが有り難いだなんて。そんなのはタワゴトの一種に違いありません。
 でもね。
 どうしようもなく苦悩に焼かれてしまって逃げようにも逃げ場がなく否も応もなく眼を開かされてしまうことは現にあるわけでして。これはもう仏縁だと言うしかないでしょ。
 

2010/02/22

ついでに一言
 
 仏縁をどこかから持ってくるというわけにはいきません。これこそどうにもならないでしょうね。
 


おまけにもう一言 
 
 で。どうにもならないことに気づくとどうにかなるわけでして。このあたりの絶妙さが仏縁というものです。