あるがままに・そのままに

—鬱陶しい亭主の場合—

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第391話 仏(佛)とは何か

第391話 仏(佛)とは何か
 
 今回で第391話となりました。11月中に27話を書き終えました。ドカスカドンドンと続けて書いてきましたが基本的には過去に使ったネタの仕立て直しですからさほど苦労はありません。
 で。書いていて思うのですが。よくもこうまで書けるようになったよなと。
 ヘンな言い方になるかもしれませんが自分にこんな文章が書けるとはとても信じられないと感じることがしばしばあります。これをもって「仏様にお育ていただいている」と表現することが可能です。ただしその表現は仏を擬人化していることに要注意です。
 仏。旧字は佛です。元来が人に非ずのものなのですから場合によって文章表現の都合から擬人化されることがあります。むしろ擬人化した方が分かりやすいときも多いと思います。しかし擬人化するに当たっては慎重な扱いが必要であるはずのものです。ヘンなふうに擬人化されたために不出来なB級SF映画のミュータントみたいな仏様が描写されることになってそんなものはこの世にいないとイチャモンをつけられることがあるのですがそれはともかくとして仏(佛)とは何か。
 私は「仏道とは自覚を自覚する自覚の道である」と書きました。すなわち仏(佛)とは自覚を自覚する自覚のことです。これを別の表現にすると「眼」であり「慧眼」であり「智慧」です。
 苦悩とはあくまでも身体感覚として具体的に把握するのだと書きました。具体的な身体感覚として把握された苦悩とはすなわち「苦悩として自覚される身体感覚」です。それを一次的な自覚だとしてさらに高次な・上位の自覚の能力(自覚を自覚する自覚)によってその一次的な自覚をさらに自覚することにより一次的な自覚そのものを観察の対象化・客体化してしまうこと。それがまさに仏(佛)の働きです。そしてそれはすなわち苦悩(苦悩として自覚される身体感覚=一次的な自覚)から離れることなのです。
 やたらくどいですが。まあこんなものですな。
 とにもかくにも上のような事情を背景として私は仏様にお育ていただいているとは言えますね。ご参考までに。
 

2009/11/30

ついでに一言
 
 必要なことは他人が出した解答を鵜呑みにせずに自ら工夫して自ら試すことです。
 


おまけにもう一言 
 
 他人の見解の丸暗記ではどうにもなりません。自分の身体で実践してください。