あるがままに・そのままに

—鬱陶しい亭主の場合—

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第374話 ドライな仏教

第374話 ドライな仏教
 
 釈尊は「わたくしはこのことを説く、ということがわたくしにはない」と仰せです。自分はこれといってオリジナルなことを説いているわけではないのだと。古(いにしえ)の人が見つけた古い道を自分もまた見つけただけであると。
 また釈尊は教えを筏(いかだ)に喩えてもおられます。あちらの岸に行くには筏が役に立つ。しかしそこに行き着いてしまえばもう筏は不要である。だから行き着いた後は筏は捨ててしまえと。
 これらのお言葉を初めて目にしたときは考えてしまいました。とても二千五百年も続いた教えを開いた人のお言葉とは思えません。荒っぽく言えば「大したことじゃないんだ」という意味に見えるのです。
 しかしよくよく思い直してみるとそれでこそ仏教であると思われるのです。
 今に伝わる仏教はとても壮大な体系を持っています。さすがに二千五百年の蓄積です。一朝一夕に身に付くものではありません。身に付くとも思えません。それらを飲み込んで消化しなければならないとすればまったくお手上げと言わざるを得ません。
 ですが我々はどうしようとしているのでしょうか。我々が目指しているのは彼岸です。何もかもこちらの岸に置き捨ててあちらの岸に渡ろうとしているのです。たとえ壮大な体系がそこにそびえ立っていようともこちらの岸に放置するのみです。
 それらしいことを教えるにしてもそれは所詮は筏に過ぎない−−この突き放したドライさが仏教です。
 

2009/11/09

ついでに一言
 
 離れればよいのだと。それが二千五百年に渡って伝えられてきた教えです。
 


おまけにもう一言 
 
 簡単なことを小難しくした二千五百年なんじゃないでしょうか。仏教はあまり大仰に考えないのがよろしいようで。