あるがままに・そのままに

—鬱陶しい亭主の場合—

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第325話 不都合な事実

第325話 不都合な事実
 
 普段の私は優柔不断でグズグズしています。ですが人前に出るとまるで別人になります。「テメーらごときになめられてたまるかよ!」といった敵愾心が旺盛だったりもします。まあ一口に言えば嫌な奴ですよ。私は。
 こんな性格ですから人前で格好良くドカンと話をブチ上げて後で自分の首が絞まることがしばしばあります。分かっているんですけどね。後になって困ることが。未熟者ですよ。私は。
 で。こういう未熟な嫌らしい人間は当然ながら仏教の蚊帳の外・・・・かというとそうでもないのです。関係ありませんから。性格なんか。人格なんぞ。自分を見る眼が生じればそれでよろしいのですから。何もかもこちらの岸に置き捨てることができればよろしいのです。性格も人格も置き捨てる対象ですからそんなものに頓着してもしかたがないのです。
 もちろん自分を高める努力はした方がよろしいとは思います。未熟者よりも人格者の方が尊敬されますもんね。他人様に小馬鹿にされる場面が少なくなるだろうと思いますもの。でもそれは仏教としては二の次・三の次でしかありません。
 さて。これも真宗の用語ですが「悪人正機」という言葉があります。いかに厚かましい私でもこれをヌケヌケと解説する気はありません。腰が引けます。ですからここでは通常の意味で善人・悪人としておきますが悪人であっても「眼」が生じれば彼岸に渡れます。そしてこれは善人にとっては許しがたい事態であるはずです。
 悪人には問答無用で地獄に堕ちてほしいものですよね。地獄の釜の底で焼かれてもがき苦しんでほしいものですよね。クソ野郎どもはどいつもこいつも針の山で血まみれのズタズタになってほしいものですよね。
 でもそうではなかったりするのですよ。
 どんなクソ野郎であっても自覚を自覚する自覚が生じれば彼岸に渡れてしまうのです。どんな善人であっても「眼」が生じないならば山ほど善行を積もうとも無功徳なのですよ。こちらの岸でジタバタともがき回る他にないのです。
 これは善人にとっては不都合な事実だろうと思います。だからといって悪人になれと勧めるつもりは毛頭ありません。悪人になったところで彼岸に渡れるものではないことは上の事情からお分かりになりますよね。善人であるか悪人であるかは彼岸に渡る要件ではないのですから。必要なのは「眼」なのですから。
 

2009/04/09

ついでに一言
 
 上のようなことを公衆の面前で主張すれば世間の大多数の善人の皆様から袋叩きにされることは必定です。仏教は怖いですよ。抜き身の白刃を振り回すようなものですから。
 


おまけにもう一言 
 
 だから私はここだけでコッソリと仏教の話をするのです。