あるがままに・そのままに

—鬱陶しい亭主の場合—

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第310話 仏教が意味不明な理由

第310話 仏教が意味不明な理由
 
 仏教はしばしば意味不明です。たとえば「自転車に乗れるようになりたければ自転車に乗ってみろ」と。これは誰もが認める当然至極のことでしょう。でも話が仏教となって「彼岸に渡りたければ彼岸に渡ってみろ」と言ったとしたらどうでしょう。意味が分からんという大合唱になるのではないでしょうか。私はそれこそ事実だと思いますし何の問題も感じません。でも大多数の人にとっては意味不明の極みだろうと思います。今回はそのことについて基本的なところを少々。
 さてと。
 自転車に乗るといった場合。そのときには自転車がどのようなものであるかイメージできます。そして自転車に乗るとはどのような状態を指すのかもイメージできます。ですから「自転車に乗れるようになりたければ自転車に乗ってみろ」でまったく問題ありません。むしろそれが正しいと誰もが納得することでしょう。「自転車」も「自転車に乗る」も現物を見て知っているからです。そこには明確なヴィジョンがあるのです。
 一方で彼岸に渡るといった場合。まず彼岸とは何であるのか。それは彼岸に渡ったことがない人にはイメージできません。そしてそのイメージできない彼岸に渡るとはどのような状態になることなのかもイメージできるはずがないのです。その点で自転車に乗ることと彼岸に渡ることとでは大差があります。すなわち「彼岸に渡る」とはどのようになることなのか。それがイメージできるように説明されていないのです。そこにはヴィジョンがないのです。だから意味不明なのです。
 あたかも目に見えるかのような説明がなされていないこと。それが仏教を意味不明にするのです。仏教が意味不明なのではなくて説明のされかたに欠陥があるのです。無だの空だのに百万言費やしてもヴィジョンが示されないままでは意味不明なままなのです。
 私は彼岸に渡るとはどのようになることなのかを過去にあれこれ書いてきました。ここではそれらを再掲することはしませんがある程度はイメージできますでしょうか。イメージできないとすればそれは私の筆力が貧弱なせいです。仏教が意味不明だからではありません。
 ついでに憎まれ口もたたいておきます。人の話を漫然と聞くだけ(読むだけ)でヴィジョンを持とうとしない人にも責任の一端があるのです。ご注意ください。
 

2009/02/05

ついでに一言
 
 絵に描いた餅でもいいからまず絵に描けないと始まりませんよね。
 


おまけにもう一言 
 
 だいたい絵図面を描けない計画ってダメな計画でしょ? 仏教も同じです。彼岸に渡るのならそのヴィジョンがないと。