あるがままに・そのままに

—鬱陶しい亭主の場合—

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第295話 自分を見る「眼」

第295話 自分を見る「眼」
 
 仏教の何が分からないかといえば「眼」が分からないのですよね。「眼」とは釈尊が初転法輪で説かれたものです。中道の実践によって開くところの「眼」です。仏説無量寿経には「慧眼」と説かれてあります。それが容易には開かないのです。
 それが開けば身の内に沸き上がる苦悩をシレっと眺めることができるようになります。苦悩の炎の中から出たことになります。火宅から脱出したことになります。「眼」が開かないうちは苦悩の炎を外から眺めることはかないません。すなわち「眼」が開かないうちは炎に焼かれ続けるのです。
 炎に焼かれ続けるのはたまりません。ですから火事で燃え盛る家の中で必死になって炎を消そうとします。しかし家の中には火のつくものがたくさんあります。いかに奮闘しても炎は次々に燃え移って消えることがありません。それでも奮闘し続ける他にすべがないのです。
 そして炎にたっぷりと焼かれて黒焦げになったとき。そこが死活的に重要な分岐点になります。
 いかにしても炎は消せるものではないのだと。それが心底知れるまで・黒焦げになるまで奮闘できること。そして黒焦げになってからでも火宅から這い出す馬力が残されているタイミングでそれを知ることできて炎を消そうとする執着を放り出そうとすること。苦悩の果てに「眼」が開く人とはそういう人だと思うのです。
 さてと。前回は「対岸の火事」と書いてあまりのピッタリさに我ながら感心しました。今回は言い回しにかなりの難がありますが全体としてこういうものだとご理解ください。
 

2008/11/26

ついでに一言
 
 全体として一つであるものを分解して順次読み進めなければならない文字列にする。それには言語の構造に起因する根本的な困難がつきまといます。しかしそうしなければお話にならないですもんね。
 


おまけにもう一言 
 
 仏道は不立文字であると言われてしまえばそのとおりです。でもそれでは何も分かりませんものね。不立文字に安穏としていてはいけないのだと私は思うのです。皆様もご自分の言葉で工夫してください。