あるがままに・そのままに

—鬱陶しい亭主の場合—

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第274話 義のないことが義なのである

第274話 義のないことが義なのである
 
 「これこそが真理である。唯一のものであり絶対のものでありその他のものは皆誤りである。そして自分こそはそれを知っているのだ!」というような何かを見つけたい人は多いだろうと思います。見つかりゃいいですね。
 そういうものが見つからないとは私は言いません。見つかるかもしれません。見つからないかもしれません。世界の人口は60億人を超えるそうですから常人離れした能力に恵まれた人は結構な数でおられるだろうとも思います。
 でもそういう唯一絶対のものを見つけたとして・・・・それでどうしようというのでしょうか。問題はそこにあると思うのですが。
 「他力には無義をもって義とす」とは自分のお師匠様である法然さんのお言葉であると親鸞さんはお弟子の唯円さんに語ったようです。義のないことが義なのであると。「如来にはこれはこうしろ・あれはああしろといったああじゃこうじゃと語ることがあると思っとったら間違いじゃい!」といった意味でしょうか。
 無原則なムチャクチャを言っていると思われるかもしれません。でも実は釈尊もそれとまったく同じことを仰せです。スッタニパータの中で釈尊はマーガンディヤさんという人に「あなたはいったい何を説くのか」と問われて答えます。
 
837 マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。
 
 仏教はこの世の何もかもこちらの岸に置き去りにして彼岸に渡れと言っているのです。何が正しいか誤っているかを議論したところで意味はありません。何か貴重なものが見つかったとしてもどうせこちらの岸に置き去りにするものなのです。どうでもよろしいのです。
 仏教は何かと誤解されやすいものだと思います。唯一絶対の何ものかを探しだすことに執着したり探し出したそのものに依存したりその挙げ句に高慢になったりしたらそもそもそりゃ仏教じゃないでしょ?
 

2008/08/21

ついでに一言
 
 何が正しいか議論することに意味はない。正しかろうが誤っていようがそれを彼岸から見ていられるかどうかが重要なのだから・・・・と言うと世俗を生きる者としては何かと不具合があったりするので困りますが。
 


おまけにもう一言 
 
 あまり言いたくないですけど聖と俗との使い分けが必要でしょうね。