あるがままに・そのままに

—鬱陶しい亭主の場合—

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第237話 念仏と信

第237話 念仏と信
 
 前回の続きということで。
 前回は諸行無常だの縁起だの一切皆苦だのは仏教の入口ではなくて仏教の核に至った後に分かることだと書いてみました。
 そう書いておいて自分が書いたことをコロコロと思い返していてフと思いついたことを書いてみます。
 念仏と信について。
 法然さん・親鸞さんより前の浄土教は「念仏すれば浄土へ行ける」という教えだったようです。すなわち念仏は浄土への入口だったのでしょう。しかし法然さん・親鸞さんは「そうではない」とおっしゃっています。大事なのは「信」であると。親鸞さんに至っては念仏は仏のご恩に感謝するものだという位置づけにされたようです。
 これは従来は入口であるとされていたものを「入口ではない」とキッパリ否定されたのだろうと考えます。ここで発想の転換があったわけですが同時に非常に厄介な問題を抱え込むことになったのだと思います。
 念仏すると信が生じるわけではないと。信が生じたから念仏が出てくるのだと。すなわち念仏すれば浄土へ行けるのではないと。浄土へ行けたから念仏できるようになったのだと。
 とすると・・・・どうすりゃ浄土へ行けるんですか? 念仏すれば浄土へ行けるものだと思っていたのに・・・・四六時中念仏していたのに・・・・どうしてそれじゃダメなんですか?
 念仏が入口ではないとすると浄土へ行く入口が何もないではないかと。これは一体どうすりゃいいんだと。でも浄土へは誰もが行けるのだと言われても・・・・はてさて困ったなと。信が大切だと言われてもどうすりゃ信が生じるのだろうか。
 そんな事情があるから信は「難中の難」と言われるのかしら・・・・というふうに考えてみました。ただの思いつきの牽強付会でまちがっていたらごめんなさいです。まあ信には念仏は必要なかろうと私も思いますが。
 

2008/06/07

ついでに一言
 
 うーん。仏教ってやっぱり難しいものですね。論理的な難しさとは異質な難しさです。頭がいくら良くてもそれだけでは無理っす。  
 


おまけにもう一言
 
 でも彼岸には行けます。浄土へも行けます。方法はあります。全部置いといて離れてしまえばよろしいのですから・・・・そこが難しいんでしょうけど。