あるがままに・そのままに

—鬱陶しい亭主の場合—

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第236話 ドテカボチャ

第236話 ドテカボチャ
 
 おおよその人はたいていの場合に仏教の入口を間違えているだろうと思います。
 仏教といえば諸行無常や縁起や一切皆苦を深く理解するものだと。それらを心底納得することこそが仏教の核に到る道であると。そう思っている人が多いことでしょう。
 僭越ながら申し上げます。それは誤りです。
 諸行無常にせよ縁起にせよ一切皆苦にせよ。それらを理解したら仏教の核に到ることができるというものではありません。それは思い違いです。逆なのですよ。高速道路に出口から入ろうとするようなものです。仏教の核に到った後につらつら考えてみると諸行無常だし縁起だし一切皆苦だしということがようやく納得できるようになるのです。
 早い話が諸行無常も縁起も一切皆苦も何も知らなくても苦悩から離れることはできるのです。そして苦悩から離れた後に「そりゃ確かに一切皆苦だったしなぁ」と知れるのです。
 たとえば自転車に乗るとは物理的にはどういうことかと。その説明をいくら聞いても考えても聞いただけ・考えただけでは自転車に乗れるようにはなりません。自転車に乗れるようになりたければまず乗ってみることです。乗れるようになるまで繰り返し訓練することです。語弊があるでしょうが仏教の入口に理屈は無用です。
 理屈を先行させてしまうのは頭の暴走です。自分の思い・考えに全幅の信頼を置いて疑わない人が多いことでしょう。しかしその信頼し切って疑ったこともない頭が実はドテカボチャなんでしょ? と仏教は教えるのです。
 自分の頭に絶対の信頼を置かないように。ドテカボチャを軸にして世界を回そうとしないように。難しいことではありません。頭が焦げついて役に立たなくなる経験を一度でもすること。それで己の身の程が知れます。
 

2008/06/06

ついでに一言
 
 たとえば「2」という数字を見たとしましょうか。それは「1+1」の答えでしょうか。それとも「2*1」の答えでしょうか。それを知らずに「2」だけいくら見ていてもね。 
 


おまけにもう一言
 
 ドテカボチャでも上手に使えばそれでいいのです。