第216話 「賜った」について
第216話 「賜った」について
風で布団が吹っ飛んだ! ワーイワーイ!
・・・・幼稚園児かよオイラは・・・・いやぁ・・・・実は昨日からウチの方では強い風が吹き荒れておりますものですから・・・・失礼しました。
さてと。今回は「賜った」ということについて少々書いておきます。
昨年の4月ごろのことですが私は「賜った」と書きました。賜った。安易に使ってしまいました。今となっては反省しています。
これは言葉の嫌らしいところなのですが「賜った」と書くと自動的に「誰が?」「誰から?」「何を?」と続いて余計な妄想を膨らませてしまうことになります。そこは放り出してください。考えても無駄です。考えること自体が賜ったものだからです。ただ単純に「賜った」。それで十分です。
このように言語の構造による制約から逃れようもない困難な事態に立ち至りますので「賜った」とか「悟った」とかいった表現は要注意です。なるべく敬遠するのが賢明だと考えるようになりました。
言語や論理で仏教をやっつけようとするのは大きな誤りです。彼岸に渡るとは言語や論理で解決できる問題ではありません。
ものごとを見ていることを見ていることをただ知っている。知っていることを知っていることをただ見ている。
練れていない表現ですが飽きず怠けず自分を観察し続けた果てに彼岸に渡るとはそのように「なる」ことです。彼岸は幼稚園児級であろうがなかろうが言葉遊びでは到達しようもない場所ですからその旨よろしくご承知ください。
ついでに一言
なんとなくでも分かりますよね? 彼岸は言葉で行ける場所じゃないってことが。
おまけにもう一言
もとよりお金を払えば行ける場所でもありません。何かを拝めば行ける場所でもありません。団体の一員になれば行ける場所でもありません。