当寺、所縁の人々  (1)
榎本武揚
三河屋幸三郎
天野八郎
土肥庄次郎
(松廼家露八)
大鳥圭介
幕臣・陸軍奉行として官軍と戦うが、
函館にて降伏
明治5年に出獄してすぐ、明治政府に出仕、工部大学校校長、学習院院長、華族女学校校長を歴任
22年特命全権清国駐箚公使
彰義隊・副頭取だが実質的な隊長
敗走し本所の砲匠「炭屋文次郎」家に潜伏していたが、7月に捕えられ、11月8日に獄中にて死亡、後に当寺に墓と碑を建立する。五代目菊五郎の寄付した線香立が墓前にある
幕臣で彰義隊外應接係に参加するも上野の山より敗走、その後、吉原の幇間(太鼓持ち)になるが、遺言により死後当寺の戦友の所に埋葬される。
三幸、又は親分檀家などと呼ばれた、侠骨の義商。
当寺に彰義隊士の遺骨を埋葬する際、金銭、人的に助力した、その後も法事の施主となるなど、旧幕臣の戦死者の供養に尽力した。「死節之墓」は三河屋の別宅に在った物
旧幕臣・軍艦奉行 函館五稜郭にて降伏。のち海軍中将兼特命全権ロシア公使、外務大輔、海軍卿、清国公使、更に逓信、農務省、文部、外務の各大臣を歴任する。
自宅が当寺と近いこともあって当時の住職とも親しかった。
勿論、彰義隊士や旧幕臣の法要に積極的に参加した。
当寺の寺号額は榎本武揚の書
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