怪力力士 白真弓

 白真弓肥太右衛門は、白川村木谷区東屋与兵衛方の勇作の長男として生まれ幼名を勇吉といいます。大食で5歳で大人ほど食べたといい、8歳でもう青年の体つきになり、力持ちで人々を驚かしました。縁の下の硝石の俵を、軽々と2階へ運んだといいます。

 若い頃、高山町(現在の高山市)へ出て大阪屋で奉公していましたが、その後江戸に出て力士になりました。
白真弓は、江戸に出て浦風林右衛門の部屋に弟子入りしました。わずか2年で幕内に入りました。

 横浜の外国人町に大きな石灯籠がありました。笠の重さは百貫以上もあると言われ、その笠を大力の関取、大門為五郎がもちあげ方向をねじまげて置いたので、どんな強力でももとの位置に戻すことはできなかったそうです。
白真弓は、当時大関の小柳関と一緒に行き、命じられるままにその笠をねじ直し、居合わせた一同を驚かしたと言われています。

小柳関の体重が五十貫、
白真弓は四十二貫あったそうです。その後、白真弓肥太右衛門は、1867年11月に前頭二枚目となり、浦風林右衛門と改名しています。その後、関脇まで昇進しましたが、明治元年11月9日東京にて40歳で亡くなりました。高山市の国分寺境内に白真弓の碑が建てられています。
 木谷区の東屋家には、今も
白真弓肥太右衛門の数多くの遺品が家宝として所蔵されています。


アメリカのペルー提督が2度目来日した時の、嘉永七年(1854年)2月26日、江戸大相撲の幕内力士23人が港ヨコハマで力仕事を奉公しました。締め込み一つの裸になり、幕府から米艦に贈る米200俵を、それぞれ2〜3俵とひっかつぎ船まで運んだのです。
この時幕内付け出しとしてデビュー早々の
白真弓は、204センチ、147キロと巨体であり、なんといっぺんに8俵(572キロ)をかつぎあげ、「オーワンダフル」と青い目をひんむかせたということです。

 
       絶世の美女 和田のおその

 荻町のはずれに、牛首口御番所がありました。この番所の役人、荻町組庄屋の和田弥右衛門は名字帯刀を許されていました。弥右衛門には、一人の娘がおり、それはそれは美しい絶世の美女でした。
 名は「おその」といい、年18歳。あまりきれいなので、一目弁天さまを拝みたいと、遠方からわざわざ見に来る人もいました。近所の若者達は何とかして自分のお嫁さんにほしいと熱心に通う者もあり、
  
    
飯島   照れ照れ   荻町曇れ
          和田の   おそのが   日に焼ける


  と歌われるようになりました。
 さて、庄屋の和田家にはお嫁さんのもらい手が毎日のようにありますが、おそのは頭をふるばかりで相手にしません。

 帰雲城下の家老の息子で、今年19歳の若小姓は、城下でも評判の美男子です。ある日、番所の見回り役の家老と一緒に、牛首口御番所にまいりました。庄屋の和田家にひと休みした若小姓は、おそのを見て、一目ぼれしてしまいました。おそのも同じように、一目で若小姓が好きになりました。
 若小姓は城へ帰っても、おそのの顔が焼き付いて離れません。おそのの方も若小姓を見てからは、なんとなく元気が無く、何時もきれいな声で歌った歌も聞かれなくなりました。そればかりでなく、食事もとらなくなって、ついに床についてしまいました。
 
 父母も大変心配して、帰雲城主にお願いし、御典医を頼むことになりました。御典医の下方医者は荻町の和田家へ来て、おそのを診察し、頭をかかえて言いました。

「これは四百四病以外の病気じゃ。娘さんによく聞いて、相手の男を捜しなさい。そして一日も早く、嫁にやるがよい。薬は必要ない。」と、早々に帰って行かれました。

 そこで弥右衛門がおそのにいろいろと訪ねましたが、何も答えず、ただ顔を赤くして、うつむいているだけでした。それでは、女は女同士と母親が聞きますと、小さな蚊の鳴くような声で「お城のご家老の息子さんが忘れられません。」と申しました。

 早速、弥右衛門は威儀を正して城へ出向き、城主にその事を話し、若小姓をおそのの婿として頂戴するよう懇願しました。この縁談がめでたく決まりますと、正直な者で、ついさっきまで重病人でご飯も食べられなかったおそのが、すぐ起きあがりご飯を食べ始め、四、五日すると全快してしまいました。そして横道吉日を選び、この美男美女はめでたく結婚式を挙げ、人生の第一歩をふみだしました。

 この若小姓は後に荻町城主となり山下和守氏勝と名乗り、内ケ島氏の没落後には、徳川家康に仕え、名古屋城築城に献策したといわれています。氏勝は、たいへんな強力(ごうりき)で、強弓を引いて荻町城より八丁も離れた「上町の上」というところのヤマズミの木に矢を射ち込んだ、という話も伝わっています。
 「白川郷の伝説と民話」より抜粋
水兵達は、力士の中でひときわ抜きんでる白真弓をチャンピオンと勝手に判断し、レスラーとボクサーが挑戦を申し込んできました。
 ところが、本当のチャンピオンは大関の小柳常吉、170センチ、150キロで、「おれもやるから、おまえもやれ」と
白真弓にはっぱをかけ、二人で挑戦を受けてたちました。白真弓は、ボクサーとやることになり、最初はパンチを顔面に受け鼻血をだしましたが、得意の突っ張りで相手を3mも吹っ飛ばして勝ちました。

 小柳は「一人二人は面倒だ。三人いっぺんに来い」と、ボクサーのキャノン、レスラーのウィリアムス、ブライアンをひっぱりだし、土俵の上の変則タッグマッチをはじめました。土俵の真ん中で、中腰に構えてあごをひき、両ひじをぐっとかためる小柳に、まず、キャノンが突っ込みざま右からアッパーカットです。小柳は、右手ではねのけ小手投げで吹っ飛ばし、四つんばいの背中の上に片足をふまえます。

 次の瞬間、腰にしがみつくブライアンを、ヘッドロックよろしく締め上げて動きを封じ、左から来るウィリアムスの横っ面を思いきり張り飛ばしました。ひるんだすきに、足で跳ね上げ、よろよろしたところを、ズボンをつかんで宙にさしあげました。これには、見るもの一同驚かない者はなかったと「黒船談義」という日本の見聞記にでています。
ペルーの「日本遠征記」に見あたらないのは、アメリカ水兵の負けっぷりをオープンにしたくなかったためでしょう。

この絵図は、古川町の蒲酒造の純米酒ラベルに採用されています。また、酒の商品名「白真弓」もこの力士の名前から戴いています。