今からおよそ1280年程の昔、菅生村(すごうむら:現在の数河)に佐藤兵衛という百姓がおりました。ある日、村の「犀ケ淵(さいがふち)」あたりの草場へ、馬をひいて草刈りに行ったのです。それから数ケ月すぎて佐藤兵衛は、馬の異常に気がつきました。

 「
どうやらこの馬に、子がてきたらしいわい」と、村人に言いました。「どこの、んま(馬)とかけたんじゃい」「いんにゃ、まんだ早いと思って、かけには行っとらんのじゃが、けったいなことじゃ」「連れて行かんでも、んま(馬)は盛りがつけば、何里離れていようと飛んでいくからのう

 そのとき佐藤兵衛に思い当たることがありました。犀ケ淵へ草刈りにいった時、しばらく馬を放しておいたが、その間にどこかへ行ったのかも知れぬ。12か月がすぎて小さい
を産みました。

 生まれたのは普通の子馬と違って、
色が黒いのに、たてがみと尾だけが白いのです。馬肥のうえで寝ないで馬舟の中て眠るのです。さらに不思議なことには、馬屋の壁を伝い、天井も伝い歩くのです。
 まるで猫みたいに、どこへでも登り歩くとは、何かの化身かも知れんのう」 村人たちは不思議がりました。

 そのうちにこの子馬は、人の話もきき分けることがわかりました。佐藤兵衛の話はもちろんのこと、村人たちの話もわかるのです。

 「
これはきっと神様の馬に違いないわい」「今までの馬小屋ではもったいないぞ」ということになり、村人たちも一緒になって、新しく馬屋を造って、そこで育てることになりました。

 佐藤兵衛の隣りに、 黒木観音堂がありまして、その観音堂を守っている隆観様という院主がおられました。「
この駒は、菅生村に飼っておくのはもったいないで、天子様に献上する方がよいと思うがどうじゃ」 という言葉に佐藤兵衛も、

 「
そうじゃ、隆観様のいわっしゃる通りがええと思う。せっかく馬屋も新しくみんなで造ったが、ぜひ天子様へ差し上げるように頼みます。」と、院主の言葉に従いました。
 

 時の天子様、文武天皇(697〜707年)ヘ献上されたのです。天子様は大変お喜びになりまして、斐太じゅうの農民の税を三年間免税にされました。そのうえ、神馬の献上を寿ぎて、国中の罪人の恩赦をされました。そし
斐太之国を、にちなんで「飛騨国」と改めになったということです。

 その時、菅生村の隆観様は、馬頭観世音の像を彫られましたので、村では神馬が出た由緒のある土地に大御堂を建ててこれに安置しました。この観音様を菅生にまつってからは、菅生は馬の産地になり、そのため村が栄えたと申します。

 この大御堂も、いつの世にか火事で焼失し、礎石を残すのみとなりましたが、馬頭観音だけは、袈裟丸の慈眼寺の開帳仏になっているといわれており、大層霊験あらたかな観音様であるときいております。隆観様の屋敷跡もありますし、黒木観音は丸山の観音堂に一緒に安置してあります。 
 

 
以上は、我が家に先祖代々言い伝えられており、先祖の善信が書いたものも大切に保存しております。今もその伝説の犀ケ淵は 下数河に残っております。また菅生にはに縁のある字名が多く、馬場と思われる高原の字名神馬野(かんばの)、馬瀬ロ(ませぐち) 馬止(まどめ)、そのほかいろいろあり、隆観さまの黒木観音あとは黒木。大御堂、大御堂向。佐藤兵衛屋敷のまえは家の前、家の軒、前田など現在も呼び伝えられております。(数河 山村佐藤兵衛さん)