正の後半から昭和の初めにかけて、農村は不況の嵐に見舞われて、農民は借金苦に困窮する者が多くなっていきました。圓山兵吉は、何とかしてこれを救済できないものかと、日夜心を痛め対策に腐心しました。

まず、小作組合を作り、小作料の軽減を地主側と交渉し、二割から三割も減らす契約に成功しました。そして、自作農創設組合を作り、資金を低利で融通し、地主と価額の交渉をして、10年ないし20年の長期返済の計画を立てて、自作農を増やしたのです。さらに、村内の各区に負債整理組合を設けて、不況なるが故に生じた借金の、長期返済計画を立てて実施しました。

昭和5年から池田善平が組合に入りました。昭和8年には信包に事務所を建て、続いて農業倉庫を建てました。同時に、向林喜久造、上田久次、川田兵蔵、天木進、倉坪米造、倉坪政市などが次々と入ってきました。

そのころには、販売、利用事業も取り入れて、小鷹利信用販売購買利用組合(通称 小鷹利産業組合)となったのです。

昭和8年からめん羊事業を始めました。初めは、清見村牧ケ洞の、岐阜県種畜場のあっせんで、オーストラリアからめん羊五十頭を輸入して、農家に一頭、二頭と配布して飼育を始めました。種畜場の河合技師の指導を受けながら、だんだん頭数を増やしていったのです。村内の頭数が数百頭に達し、全国でも有数のめん羊組合になりました。

頭数が増えてきた昭和10年になって、羊毛を加工して織物を作る産業を興す議が圓山専務の発案で出てきたので、職員みんなが躍起となって、実現に協力しました。

さっそく、向林ノエを福島県安達郡、高橋豊吉羊毛加工研究所へ派遣しました。彼女は羊毛加工の技術を習得して、一年後に帰って来きました。信包事務所の二階が三十坪でしたが、そこに足踏み紡毛機十五台、ハンドカード二十組、染毛道具一式、足踏み織機二台などを設備して、村内の女子青年十数人を集めて、小鷹利産業組合羊毛加工所が発足しました。

初めは、ホームスパン、ネクタイ、ショールなどを作り、次第に洋服地を織るようになりました。ネクタイ一本二円、ショール一本五円、洋服地一着分二十五円で販売されました
 
 昭和14年には、谷地区に独立の羊毛加工所を建設し移転しました。十五間に四間の二階建ての百二十坪のもので、三十人くらいは収容できました。全員が泊りこみで、女子青年の修練道場も兼ねたものでした。設備もおいおい増加し、足踏み紡毛機は自動式になり、ハンドカードはサンプルカードに、足踏み織機も自動織機にと改良していきました。また、織物専門指導として、吉田、中村、神原などを雇い入れました。

羊毛加工の技術も上達してきたので、皇室への献上品謹製の議がまとまり、昭和14年11月より、羊毛加工についての日本の権威者、三枝古都(さえぐさこと)女史を指導員として招き、白川ノエ(旧姓向林)主任を中心に、二十余名の女子青年が誠心をこめて、献上のホームスパン洋服地二着分を謹製して、昭和15年1月10日、献上品完成祭、並びに奉納祭を関係者一同で執行しました。

その曰、小鷹利農業組合長 布施孫左エ門、小鷹利村長 布施孫二郎、組合専務理事 圓山兵吉、県会議員 上杉一枝、青年団長 倉坪政市、組合職員 上田久次、向林喜久造、献上品謹製責任者 白川ノエの八名が奉持して、飛騨細江駅を出発し、翌11曰午前6時に東京駅に到着しました。午前9時20分、宮内省に参内し、直ちに御洋服地二着分を献上し、御喜納を賜わり、御菓子の御下賜をいただいて、一同感激して退出しました。

加工所で一番最初に織った洋服地、それは、工員が練習に全員が少しずつ織って仕上げたものですが、それを私が十円で買って、背広に仕立てました。その背広は、五十余年を経た現在、まだ大事に愛用しつつ保存しております。

その後もこの事業を続けていましたが、戦争がだんだんと激しくなり、諸物資の欠乏はあらゆる方面に波及してきました。ついに昭和19年には、小鷹利羊毛加工所は、全面的に陸軍に接収され軍の物となってしまいました。昭和20年8月終戦となり、民間に払い下げされました。

次に組合の農産加工のことを書きます。「小鷹利のたくあん」として、大阪や名古屋の市場で名声を博したのも、昭和10年ころからのことです。美濃早生大根の早づけたくあんの先進地長野・愛媛・岡山などの各地を、組合職員上田久次が、役場の農業指導員等と視察して、種子を仕入れて帰り、農家に栽培させました。

一方、農業倉庫の隣りに、たくあん加工場を建て、六尺立方のタンク、二基が造られました。栽培の指導には、大阪中央市場から直属の技術員が派遣され、各地区で美濃早生大根栽培講習会を開いて巡回したのです。飛騨は高冷地のため、他地域産のものと比べて品質がよく、たちまち大評判となり、各市場の人気が高まりました。谷にタンク八基の大加工場を造ったのも、数年を経た昭和17年でした。「日本一の組合」と全国的に評判が高まり、各地からの視察団や見学者が多数訪れ、その応対や案内に忙殺され、圓山専務は、多方面への講演や発表に多忙を極めていました。



国民健康保険法ができて、最初に取り組んだのも圓山専務です。村内各地区毎に、夜みんなに集まってもらって、そこへ職員が三、四人あて行って説明しましたが、趣旨の徹底には大変苦労をしました。発足して一年ほどすぎると、保険のありがたさがようやくわかってきて、喜ばれるようになりました。

以上のように組合が大活躍をしてから、四十余年が過ぎました。現在に比べると、その変革のあまりにも大きいのに驚くばかりです。しかしながら、今は故人となられた圓山兵吉専務(後に組合長)の、組合に捧げられた情熱が、現在のすばらしい文化の温床として、大きな力として働いていることを思い、感慨にたえないものです。

 圓山兵吉   小鷹利村 黒内出身
ふだん一位笠をかぶり、古い洋服に蝶ネクタイを結び、下駄ばきの軽装で気軽にどこへでも出かけ、事業の推進には極めて積極的な対応を示した。昭和19年専務理事を退職。
昭和41年11月20日急性肺炎で死亡。享年72才。

     笹ケ洞 故 向林喜久造さんの文(昭和61年記)に拠る

 80年前の昭和初期、日本は全国的な不況の嵐に見舞われていた。ここ、飛騨地方の農村も例外ではなかった。小鷹利村の経済は極度に沈滞しきっていた。いかに自力で活性化を図るか、大きな課題であった。村を救ったのは、小鷹利産業組合(正式名 小鷹利信用販売購買利用組合)の圓山兵吉(まるやまへいきち)。

負債整理組合、自作農創設組合
を立ち上げ農民を救済し、めん羊飼育から羊毛加工事業、大根栽培から沢庵加工事業を手がけ大成功を収めた。「日本一の小鷹利の組合」として、毎日のように各地から視察団や見学者が訪れた。

 
これを題材に、小説「小鳥峠」(橋本英吉著)が昭和19年2月東京の非凡閣から初版一万部が発行された。7月にさらに5千部増刷された。
この話は、現在の岐阜県飛騨市古川町の五ケ村地域(旧小鷹利村)にあった実話です。
当時は「日本一の組合」と全国に名前がとどろきわたったという。