「ああ野麦峠」は、、昭和43年(1968)朝日新聞社から出された山本茂実のルポルタ−ジュ。製糸工場の女工さんだった明治生まれのお年寄り達に、聞き取り調査したものを本にまとめた。故郷を前に野麦峠で死んだ若き製糸工女みね。富国強兵政策に押しつぶされていった無数の娘たちの哀しい青春を描く、戦後ノンフィクションの名作!

 明治から大正にかけて、外貨を稼ぐ手だては、生糸でした。養蚕が日本を支えていた時代、その陰では10代、20代のうら若き製糸工女たちの悲惨な生活がありました。

 諏訪地方には豊富な水のおかげもあり、製糸工場が集中していました。周辺農村部から集められた大半の少女達は、山深い飛騨の山中の村々から連れてこられた貧しい農家の子供達であった。多くの少女達が半ば身売り同然の形で年季奉公に出されたのだった。工女たちは、朝の5時から夜の10時まで休みもほとんどなく過酷な労働に従事しました。工場では、蒸し暑さと、さなぎの異臭が漂う中で、少女達が一生懸命、額に汗をしながら繭から絹糸を紡いでいた。苛酷な労働のために、結核などの病気にかかったり、自ら命を絶つ者も後を絶たなかったという。

(以下 ああ野麦峠より抜粋)

      
工場づとめは監獄づとめ
           金のくさりがないばかり


      
籠の鳥より監獄よりも
           製糸づとめはなおつらい



 工場の寄宿には厳重に鉄の桟がはめられていた。逃げた工女があれば監視員はいっせいに馬で四方にとび、各街道、峠、後には各駅をおさえ、たちまちつかまって引きもどされる、それは文字通りの監獄であった。
 「それでも行かずばならない。そういうもんじゃと思って歯を食いしばって、みんなのあとについていったのでございます」(明治23年生)


 当時、百円といえば大変な大金だった。百円工女になることは彼女たちの誇りだった。だからこそ、無理をしてでも百円工女になるよう頑張った。しかし、そんな頑張りもつかの間のこと。重労働に疲れ、いつしか体は病気にむしばまれ、廃人同様となって工場の片隅に捨て置かれるようになってしまった。

 
ああ飛騨が見える  (ああ野麦峠より抜粋)

明治42年11月20日午後2時、野麦峠の頂上で一人の飛騨の工女が息を引きとった。名は政井みね、二十歳、信州平野村山一林組の工女である。またその病女を背板にのせて峠の上までかつぎ上げて来た男は、岐阜県吉城郡河合村角川の政井辰次郎(31)、死んだ工女の兄であった。

 角川といえば高山からまだ七、八里(約30キロ)、奥越中(富山)との国境に近い、宮川沿いの小さな部落である。ここから岡谷まで七つの峠と30数里の険しい山道を、辰次郎は宿にも泊らず夜も休みなしに歩き通して、たった2日で岡谷の山一林組工場にたどりついた。
 「
ミネビョウキスグヒキトレ」という工場からの電報を受取ったからである。
辰次郎は病室へ入ったとたん、はっとして立ちすくんだ。美人と騒がれ、百円工女ともてはやされた妹みねの面影はすでにどこにもなかった。やつれはててみるかげもなく、どうしてこんな体で十日前まで働けたのか信じられないほどだった。病名は腹膜炎、重態であった。工場では辰次郎を事務所に呼んで十円札一枚を握らせると、早くここを連れだしてくれとせきたてた。工場内から死人を出したくないからである。辰次郎はむっとして何かいいかけたが、さっき言ったみねの言葉を思い出してじっとこらえて引きさがった。
  
 「
兄さ、何も言ってくれるな
  みねはそう言って合掌した。飛騨へ帰って静かに死にたがっているのだと辰次郎はすぐ察した。みねはそういう女だった。準備して来た背板に板を打ちつけ座ぶとんを敷き、その上に妹を後ろ向きに坐らせ、ひもで体を結えて工場からしょい出した。作業中で仲間の見送りもなく、ひっそりと裏門から出た。辰次郎は悲しさ、くやしさに声をあげて泣き叫びたい気持をじっとこらえて、ただ下を向いて歩いた。しかし、みねは後ろ向きに負われたままの姿で、工場のほうに合掌していた。その時、

 「おお 帰るのか、しっかりしていけよ、元気になってまたこいよ」
 
 あとを追ってきた門番のじいさんが一人だけ泣いて見送ってくれた。
 
おじさん、お世話になりました
 「元気になってまた来いよ、心しっかりもってな」


  二人はお互いに見えなくなるまで合掌していた。辰次郎はこの門番の言葉にやっと救われた思いで歩き始めた。それはこの岡谷に来て初めて聞く人間らしい言葉だったからだある。彼は、松本の病院へ入院させるつもりで駅前の飛騨屋旅館に一泊した。この旅館の経営者中谷初太郎は辰次郎たちと同郷の河合村角川出身者で、その彼も一緒になって、みねに入院することを勧めたが、飛騨へ帰るというみねの気持は変らなかった

  しかたなし辰次郎はまたそこもしょい出して、いよいよ野麦街道を新村、波田、赤松、島々、稲核、奈川渡、黒川渡、寄合渡、川浦と幾夜も重ねて、野麦峠の頂上にたどりついたのが11月20日の午後であった。
  その間みねはほとんど何もたべず、峠にかかって苦しくなると、つぶやくように念仏をとなえていた。峠の茶屋に休んでそばがゆと甘酒を買ってやったが、みねはそれにも口をつけず、

 「
アー飛騨が見える、飛騨が見える」と喜んでいたと思ったら、
                  まもなく持っていたソバがゆの茶わんを落して、力なくそこにくずれた。
 みね、どうした、しっかりしろ」、辰次郎が驚いて抱きおこした時はすでにこと切れていた。

 「みねは飛騨を一目みて死にたかったのであろう」、そういって辰次郎は六十年も昔のことを思いだして、大きなこぶしで瞼を押え声をたてて泣いていた。当時の彼の衝撃が想像される。


<政井みねの墓>
実存した政井みねの墓は、河合村角川(つのがわ)にある専勝寺の真裏にあります。(河合小学校の隣)
地元の方がなさるのでしょうか、このお墓だけにきれいな花が供えてありました
みねの妹「ふよ」も糸ひき稼ぎに行きました。その後病気で帰り、長い病の後同じ腹膜炎で亡くなりました。

 当時は、今のように健康保険があるわけでなく医者代は高く、せっかく稼いだ少しばかりの金はたちまち消えてしまう。よほど重症にならない限り、医者にかかるということをしなかった。結核は不治の病とされ村の年寄り衆は病気で帰る工女に出会うと生きているのにすでに仏に向かうように合唱して見送ったという。

工女千人について23人という高率の死亡推計があり、その7割が結核という。



 野麦の雪は赤く染まった  (ああ野麦峠より抜粋)

次の日はいよいよ野麦峠にかかる。
  山沿いの道は、降りつもった雪の上にほそぼそと続いていた。乗鞍に源を発する益田川の源流なのであろうか、急傾斜の谷をななめに通っているこの道は、夏は快適な峠道なのに、吹雪になるとがらりとようすが変って、二月三月の残雪ころは堅い氷の刃となり、権太という野麦のボッカ(荷負稼業の人)でさえ足を踏みはずして死んだという〈権太アラシ〉の難所と変る。

 「工女衆がよく落ちた谷はこの辺でございます。みんな帯をといてつなぎ合わせておろしてやり、それでやっと救いあげたこともございました。峠の地蔵様が笹原の中に立っているのはその付近で、あの谷はどれだけ多くの工女の命をのんだか知れません。わしらは先の人に離れないようにヒモで体を結び合わせ、峠の地蔵様に念仏をとなえながら一足一足命がけでついていったのでございます」(明治15年生)

 その女の悲鳴が野麦の谷々に響きわたり、峠の地蔵様はそれを黙って見守っていた。パンツもなかった明治のこと、腰巻きのすそは凍ってガラスの破片のようになり、女のモモは切れて血が流れ、ワラジをいくら取り替えてもたびは凍り、足は凍傷にふくれ、宿についてもすぐ火にあたることはできなかった。
「野麦峠の雪は赤く染まった」とよく聞くが、それは腰巻きの染料が雪に溶けたものであることがあとでわかったが、そればかりでなく、この女たちの足から流れた血も混じっていたことであろう。

 峠の寒さは手足ばかりでなく、ワシは目玉が凍みてしまい、長いこと目医者に通いました。こんなことならいっそくるんじゃなかったとその時は思いましたが、ワシが糸ひきが好きでしたからまた何年も行きました。(明治25年生)

 野麦を越えるときは、この辺の衆はみんな水さかずきをして出たもんです。何しろ野麦の雪が赤く染まったという話を年寄りからよく聞いた。(明治35年生)
 
 やんちゃな吹雪にあっても、大勢でお助け茶屋にも入れず、表にむしろを敷いて野宿したそんなひどいことが三度ありました。(明治15年生)

 何百、何千という工女がお互いに体をひもや帯で結んで、大きな声で励まし合い、念仏を唱えながら峠を越えていくのを見た。なかでも、十二、三の少女をねえさんたちがかばいながら、吹雪の中を行く姿は悲壮なものだった。工女たちは家に帰りたいの一念で、幾千という足で踏み固めて通り抜けてしまうが、そうでなかったらあんな吹雪の峠は、いくら頑強な男でも通れるものではなかった。(明治14年生)